夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
28
『林果はどうしているかな?』
一応仕事が決まったことで、次の課題である、林果との連絡を取ってみたかったが、彼女からは今のところ
連絡がない。
『待てよ、ケータイを見てみよう』
昇はケータイにメールなどが来ていないか調べてみたが、何もなかった。
『パソコンはどうかな?』
やはり何も連絡はない。諦めて再びベットに潜り込んで、あれこれ考えた。
『くそっ! だけどここまで来ると人権侵害じゃないのか? 小姫は確かに問題だけど、元凶は父親だ。確かに
俺は身分不相応だろうけど、別に逆玉の輿に乗ろうなんて考えている訳じゃないぞ!
ただ純粋に林果が好きなだけだ。彼女も俺の事が好きだと思う。それの何処が悪い? 逆に考えてみれば
良い! おい! くそ親父! 身分相応なら、最悪の男でも良いというのか! ……多分こう考えているんだろ
う、身分相応で、そこそこの男なら良いって。
しかしお前同様、結構な身分の男にろくな奴はいない。もし俺以上の男が居たとしたら、いや少し位劣ってい
たとしても良い。そこそこの男が居たら、俺は潔く手を引くよ。居たらな!!』
昇はベットの中で、ムカツキを覚えながら、林果の父親を罵りつつそんな事を考えていた。
十分眠れたからか、目はすっかり冴えて、全く眠くなかった。今は午前四時。朝食は午前七時位だから、あと
三時間ばかりある。
『アアーーーーッ!! 林果に会いたい!! 抱き締めてキスをしたい。くそっ! どうすれば良い。……そうか、
客になって行けば良い。
客として話し掛ければ、問題は無い筈だ。幾ら小姫でも、客を殴ったり、ただ話をしているだけの客を外に出
したりは出来ない筈だ。
良し!! 近い内に実行しよう。明日は、まあ、もう今日だけど十時出勤で五時に終る。その後にでも、万田
屋スーパーに寄ってみよう!!』
昇は林果に会う為の作戦を一応考えて、早速実行する事にした。しかしまだ時間はたっぷりある。
『しかし林果は俺と結ばれて幸せか?』
ふと、そんな事を考えた。これが十代の若者だったらそんな事は考えなかったかも知れない。しかしもう二十
三才になった昇には、そこまで考える余裕があった。
『あの泣き虫の鏡川キラ星とだったらお似合いなんじゃないのか? あのお色気には正直言って参るよな。彼
女、本当に俺が好きなのかな? ただ単にエッチしたいだけかも知れないぞ。
もし何人かの男性に振られたとすれば、エッチの方は開拓されているよな? だからしたくてしたくて堪らない
とか? うーむ、良く分からないな。ああ、しかし林果ともう一度じっくり話し合わないと何とも言えないよな……』
昇はやっと一つの結論を出して、それから何時の間にか寝入っていたのだった。
『林果! 愛しているよ! チュッ! あああ、大好きだ!!』
昇は夢を見ていた。林果と裸で抱き合って、愛の営みをしている夢だった。しかし奇妙なのは妙に胸が大きく、
太腿はむっちりしていて、何だか別人の様なのだ。
例によって、小姫と思(おぼ)しき小型の怪獣が襲って来た。小型といっても身長は二メートルを越えているだ
ろう。例によって何故か口の中は真っ黒である。
ただ、今までと少し違うのは、小姫の怪獣は首輪をはめられて鎖に繋がれていて、三メートルを優に越える
大男がその鎖の端を持っている事だった。その大男に命令されて、後は何時もの通り、怪獣が昇の腹部に喰
らい付き、
『ギャーッ!!』
と悲鳴を上げて目を覚ました。
『あああ、夢だったのか……。良かった。だけど今の夢は、ちょっとおかしいぞ? 俺が抱いていた女性が、何
時の間にか林果から鏡川さんに代わっているんだよな。これって浮気か? それとも本気!!』
昇は自分の気持ちが揺れ動いている事に気が付いた。社会的身分の違いの重さが身に染みて分かる様な
気がして来たのだった。
『仮に俺と林果が事実上の結婚をしたとしても、林果は幸福になれるのか? 例え父親が許したとしても父親の
周辺は黙っている事は無いだろう。それが金持ちというものさ。いっその事林果を諦めようか?』
昇は考えているうちに、段々弱気になって来ていたのだろう。それから少しうつらうつらしている内に、朝食の
時間になったのだった。
「今夜はお父さんが帰って来るからね。ふふふ」
母の水江は嬉しそうである。
「ああ、分かった。じゃあ、もう少ししたらスーパーに行くから」
「先に出掛けるけど、ガスの元栓と戸締りだけはきちんとしてね。それじゃね」
「行ってらっしゃい!」
昇は形式的にしかし多少は情を込めて言った。水江は昇の本心を見抜いていたのか、淡々とした言い方に
終始した。それでも昇にとっては、精一杯の対応だった。
『父親が来る!』
それだけで十分に不愉快だったのだから。
『まだ少し時間があるな。もう少し理論の方を詰めて置くか』
昇は宝本賢三の残したノートを教科書代わりに、自分が引き継ぐ決心をしている『続・夏休み未来教室』に必
要な内容を模索し始めた。
『今日は大きな数について考えてみよう。物凄く大きな数で、しかも簡単な形式で表せる様な数で無い数。ラン
ダム的に数字の並んでいる数だとすると、正確に示す為には、それを何処かに書かなくちゃならない。
だけどDVDにデータとしてびっしり書き込んでも、全然足りないとすれば? 先生のノートによれば具体的な
数値と考えられるものであったとしても、もっとも小さな文字で記入したとしても、この宇宙全部を使わなければ
ならない様な超巨大な数値だとすると、それに1足すことすら出来ない事になる。
数学の世界では最大の整数は存在しない筈だけど、こう考えると最大の整数が存在する事になる。何しろ1
足そうとしてもその隙間が全然無いのだからな……』
そこまで考えた時、急に可笑しみが込み上げて来た。
「あははははは、俺が数学を少しでも考えるとはね。高校の数学は0点のオンパレード。あの頃は数学という学
問は終った学問だと思っていたよな」
そこまで独り言で言ってから、数学に関心を持つ様になった過去を思い出していた。
『勝手にそう思い込んでいただけだけど、教科書にも問題はあるよな。俺の使った教科書には数学が生きた学
問であると一言も書いてなかった。
それとムカつくのはあの微分や積分の説明は何だ? 限りなくゼロに近づくからゼロとみなせるだって? カ
チンと来て思わず教科書を放り投げた事があったっけ。
今から考えれば俺の直感の方が正しかったんだよね。もっともニュートンやライプニッツでさえも引っ掛った所
らしいから、まあ、無理も無いのかな?』
そこでインスタントコーヒーを入れてブラックで飲みながら更に思い出し続けた。
『でも、高校を止めてから影峰仁(かげみねひとし)という人の書いた『無限の道しるべ』という本を読んでから少
し気が変った。
一般向きの現代数学の解説書というだけではなくて、何人もの数学者のエピソードがほど良くちりばめられて
いる。
何より驚いたのは、皆そうだという訳ではないけれど、一部の数学者達の人生もまた波乱に満ちたものだとい
う事を知った時だ。
フランスの大数学者、エヴァリスト・ガロアには参ったよ。死後四十年もしてから、その業績が認められたなん
てね。おまけに僅か二十才で死んでる。
しかも決闘で射殺されているんだからね。それも秘密警察の罠に引っ掛って。芸術家の人生も波乱万丈だけ
ど、その上を行く位凄い!
俺は数学者なんて地道にこつこつやっているばかりで、波乱も何も無いのかと思っていたけど、その認識は
全然甘かったよな……』
そこから少し考える方向を変えた。
『世界を有限の正の整数で考える、『存在定数』の考え方だと、それこそ、さっき考えた、限りなくゼロに近い、と
いう考え方も、明白になる。
幾らゼロに近くても、最小でも一個あるのだから、絶対にゼロとみなせない。結局、微分、積分に関して言え
ば、その部分には触れずに証明なり何なりをするのが正しい様だな。まあ、それは数学者の人にやって貰うとし
て、おっと、そろそろ時間か……』
昇は母の言う通りにガスの元栓を締め、しっかり鍵を掛けて家を出た。
「お早う御座いまーす!」
「お早う!」
十時十分位前に昇はスーパーに着いて、会う人皆に朝の挨拶をした。レジのスタンバイにはメグミが何かと
アドバイスをしてくれる。しかしまあ、殆ど必要は無かったのだが一応主任なので
『ハイハイ』
と、素直に言う事を聞いて、頷く。
ざっとスタンバイが出来てから、
「昨日は急だったので間に合わなかったけど、今日からこの制服を着て下さい」
メグミは自分のレジの下に用意していた、黄色とオレンジの中間ぐらいの色の『スーパー、フラワー梅ノ木店』
と、ロゴの入った、丸首の綿製のゆったりした感じの長袖シャツを渡した。
「下の方は自由ですから、上だけなんだけど、これは必ず着用して下さい。それとこれはネームプレートと実習
生の腕章よ。
ここのスーパーでは一ヶ月したら実習生から卒業して正式のアルバイターとして採用という事になるのよ。もし
分からない事があったら、遠慮なく先輩の人達に聞いてね」
「はい、分かりました。宜しくお願いします」
昇が頭を下げて、開店に備えていると、店長の鈴木免吉がやや怪訝な顔でやって来た。
「ええと、さっき女の人から電話があったんだけど、……鏡川さんって知ってるか?」
「はい、一応知っていますけど、何か?」
「いや、君のスケジュールを聞いて来たので、答えるべきかどうかちょっと迷ってね、ざっと話しちゃったんだけ
ど、それで良かったのかどうか、ちょっと心配になってね」
「ああ、済みません。別にどうと言うことはありませんから。あの、今後その様な電話をしない様に、注意して置
きますから。本当に済みませんでした」
昇は内心冷や汗を掻いていたのだった。
『妙な事にならなければ良いけどな……』
酷く不安だった。