夏 休 み 未 来 教 室 


                                              春 野 夢 男

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「ハリャーーーー!!!」
 気合一閃、腹部に小姫の強く握り締めた拳がめり込んだ。
「バシィッ!!!」
「グェッ!!!」
 悲鳴とも何とも言えない様な、奇妙な声を出して、昇の体は一瞬宙に浮いた。そのまま地面に落ち、
「ウギャーーーー!!!」
 悶え苦しみだした。そして直後に、
「ウグオッ、オオオーーーッ、オエーーーッ、……」
 さっき食べたばかりの夕食を全て吐き戻してしまったのだった。

「チッ! 汚いね!! ふんっ!! カスにはお似合いだよ!! 二度とお嬢様のそばに寄って来るんじゃない
よ!! 分かったわね!! カス野郎!!」
 嘔吐物に汚れない様に気をつけながら、小姫は散々罵って、それから空き家から出て行ったのだった。昇は
吐き出した嘔吐物から逃れたかったが、腹部の激痛に、のた打ち回るだけで精一杯で、とてもその余裕はな
かった。結局吐き出した自分の嘔吐物に、眼鏡も含めて全身まみれてしまったのだった。

 三十分ほどして、やっと、痛みも治まり掛けて来た。辺りはもうかなり暗くなって来ていた。昇は少し待ってすっ
かり暗くなってから、フラフラの状態で眼鏡を外してポケットにしまい、家にこっそり戻って行った。
『母さんに知れたら大騒ぎするかも知れないからな……』
 密かに真っ先に自分の部屋に入って、服を脱ぎタオルでざっと体を拭いてから着替えて、もう一度風呂場に
行った。嘔吐物が体に付いているのでかなり臭うのだ。

「また汗を掻いたから、もう一回風呂に入るから」
 居間でテレビを見ていた母親に、顔を出してそれだけ言ってからまたボイラーの温度を上げて、湯船にお湯
を入れ始めた。

 母の水江は本当は何かがあったと気が付いていたが、激しく反発される事を恐れて何も言わなかったのだ。
『立って歩けるんだったら大丈夫ね!』
 そんなふうに思って、テレビに夢中になっている振りをしていたのである。

『さて、洗濯しておかないとね』
 昇の今度の入浴の目的は嘔吐物にまみれた服を洗う事だった。
『うひゃーっ、臭うね!』
 等と思いながら洗剤を入れて、湯船の中でシャツもズボンもパンツも洗った。勿論、眼鏡も自分の体もである。

「お休み!」
 全ての作業が終ってから、もう一度眼鏡もちゃんと掛けて居間に顔を出し、母親にお休みを言ってから自分
の部屋に戻った。部屋の中に自分の洗濯した物をロープを張って乾かしてある。
『ふう、初めてだな、こんな事をしたのは……』
 不慣れな洗濯で疲れた事もあって、直ぐ眠ったのだが、その夜は散々だった。腹部が再び痛み始めたし、夕
食を全て吐き出したので空腹だった。その上熱まで出て来たのである。

『畜生腹が減っているのに食えないよ、これじゃ!』
 悔しかったがとても食事どころではない。もし食べたら直ぐ吐き出してしまうことは疑いの無い所だった。
『これじゃあ解熱剤も飲めないな。薬でも吐き出しそうだ!』
 昇は過去の病気の経験からこの様な身体の状態の時には、ただの水でさえ吐き出してしまうものだと言う事
を知っていた。

『ひたすら忍耐しかないな、しかし何ていう馬鹿力だ。パンチを食らった時には、全身がバラバラになるかと思っ
たよ。うううう、それにしてもまだ相当に痛いぞ。
 ……だけどあの時吐いたから後の攻撃が無かったんじゃないのかな? 下手をするともう五、六発殴られて
いたかも知れないぞ。
 不幸中の幸って言う奴だろうな。へへっ、これじゃあ、もう二度と林果さんとは口も聞けないな。ああ、何だか
残念な気がする……』

 翌八月七日の月曜日には殆ど一日中部屋に閉じ篭っていた。腹部の痛みと発熱がなかなか治まらないのだ。
「今忙しいから食事は後で取るよ。今日は何処にも出掛けないから」
「じゃあ行ってきますから。戸締りには気を付けてね。じゃあね」
 母親と顔を合わせたくなかった。ドア越しにそれだけの会話で終ったのである。

 その日の夕刻、母親が帰って来る頃には、やっと腹部の痛みも発熱も治まって来て、笑顔で彼女を迎える事
が出来たのだった。
 勿論洗濯物にはアイロンを掛けて、旨く誤魔化したし、朝食は少し遅めの昼食として何とか食べ切る事が出
来た。母親の水江の心配は息子の昇の笑顔でひとまず治まったのである。

 昇に殴られて以来、水江は今回の事件に関しては一切言わなかった。昇も話さなかったが、
『結局、テレビも新聞も二階の階段から転げ落ちた事による事故死ということで落ち着いてしまったな。嘘だ。
有り得ない! 宝本先生があんなに酔って小学校へ行く筈が無いじゃないか!』
 そう思うと何だかとても腹立たしかった。

 小学校の解体はもう既に再開されている。数日で跡形も無く消えてしまうのだ。その夜やっと普通に眠れた昇
は翌八月八日の火曜日に、またしても小学校に行ってみた。
『兎に角、小学校の解体をこの目で見てみよう』
 そう思ったのである。

 生憎の雨模様で昇は傘を差してやはり歩いて行った。解体工事は順調で、もう殆ど瓦礫の山である。雨の
せいもあるのだろう、見物人は数えるほどしかなかったし、
『ああ、何て無力なんだ。宝本先生の死がこれじゃあ、まるっきりの無駄死にみたいじゃないか! でも俺には
何も出来ない! 本当に俺はカス野郎だ!!』
 昇は涙ぐみながら、自分を罵り続けた。暫くそこで半分泣きながら、解体工事を見ていたが、虚しさだけを感
じて帰宅した。

 その日から昇は食事の時以外は部屋に閉じ篭って、ひたすら考えていた。
『くそう、犯人を絶対に見つけ出してやる!』
 その思いに固まっていたのだ。

 海外から宝本賢三氏の長男と次男が一時帰国して、葬儀が執り行われた。通夜には昇も参加した。殆ど知
り合いは居なかったが、昇は賢三氏の遺品の中に『夏休み未来教室』に関連する書物やらノートやらが無いか
知りたかったのである。
 しかしそれらしい物は一つも無かった。だが逆にその事が昇に、賢三殺しの真犯人探求の気持を強くさせたの
である。

『おかしい、関係書類が一つも無いなんて絶対におかしい! どう考えてもあの講義は中途半端だ。だとすれ
ば、最低限ノートの一冊位はある筈だ。それが全く無いなんて!!』
 昇は今度の事件の奥深さを感じていたのだった。

 昇はまた、賢三氏の二人の息子達とも話し合ったのだが、『夏休み未来教室』に関する話しは全く聞けなかっ
た。何も知らない様である。
「どう考えても、事故死には納得行きません。確信は無いけど、誰かに連れ去られたのではないでしょうか?」
 と言ってみたのだが、息子達にも他の者達にも相手にされなかった。

「林谷君はニートだし、変な思想を持っているらしいよ……」
 そんな風に囁かれていて、真面目に言う昇の言葉は、ただハイハイと笑って聞き流されるだけだったのだ。
『畜生、俺がニートだからなのか! いや、ニートで無くても、多分相手にはされないんだろうな。こうなったら、
真犯人をきっと見つけ出してやる!』
 そう決心したものの、拙い事にも気が付いている。

『相手は、社会的地位のある人間。実行犯はその手先なんじゃないだろうか? 俺を取り調べた時、刑事は情
報提供者を『あのお方』と言っていたよな。
 だとすればよほどの人物だ。下手に嗅ぎ回ったら、今度はこっちが消される。それに万一母さんに何かあった
ら、畜生そうなったらギブアップだ!』
 昇は母親を殴りもしたし、罵りもしたが、本当には深く愛して居るのである。その母親が危険な目に会うので
は、最早追求は不可能だと悟った。

『ええい、畜生! 何も出来ないのか! ううううっ!』
 通夜から帰って来た昇はベットに寝転がった。悔しくて、悔しくて、涙が溢れ出た。
『せめて一矢報いるのにはどうすれば良い?』
 ずっと考えた結果、ある結論に達したのだった。

『夏休み未来教室、確かスーハー教の金森田とか言う男だよな、小学校を提供したのは。だとすれば彼が怪し
くないか?
 その前に、石淵信念さんは? いや、彼は白だろう。彼はまだ十分に宝本先生の考えを知らない。良く分から
ないのに、わざわざ危険を冒して、ケンちゃんを殺す事は無い。
 とすれば、考えられる事はたった一つ。『夏休み未来教室』の内容を最も良く知る男、金森田しか居ない! 
彼はスーハー教の大幹部だし、確かに社会的地位も相当高い。間違いない! 今度の事件の黒幕はアイツか
その周辺だ!』
 昇は推理に推理を重ねてとうとう一番疑わしい人物を探り出してしまったのである。

『何食わぬ顔で、通夜に出席していたよな。体格も良いし、高そうな背広を着ていたしな。金もあるんだろう。下
手なことをしても決定的な証拠が無いから無駄だな……。
 だったら、宝本さんの、ケンちゃんの遺志を引き継いだらどうだろう? 俺が先生の言いたかった事を何とか
世間に流布すれば良いのではないのか? インターネットを使えば良いかも知れない。
 だけど、先生の理論については後の事を余り知らない。どうする? 関係書類は全部処分されているみたい
だし……』
 昇は暫く悶々としていたが、急に閃いた。

『続きは俺が考える! 確かケンちゃんもそんなニュアンスの事を言っていたよな? だったらこの俺が考えよ
う!
 ……働いてみるか? コンビニのバイトでも良いじゃないか。あの山の麓のコンビニでアルバイトを募集して
いたよな? 駄目元でやってみようか?』

 昇はそれから数日後に自分から初めて仕事に付く事を母親に言った。コンビニでは割合簡単に採用された。
安いバイト料を了承したからでもあったようだ。
 就職祝いに通勤用の自転車を買って貰い、毎日通い始めた。一月経っても、二月経っても、三月経っても、
辞めなかった。

『夏休み未来教室を、その続編を自分でやってやる!』
 その思いが昇を支えていたのである。バイトした残りの時間の大半を『続・夏休み未来教室』の中身を考える
事に費やしていたのだった。
            

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