夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
14
その年の暮れ、林谷昇にとっては大きな異変が沢山あった。その一つはバイト料を貯めてパソコンを買いイ
ンターネットを始めた事である。その他に久々に眼鏡を買い替えたこともあった。
『黒ブチの眼鏡だと、『のぼっ太君』に似ていると思われるからな!』
度が進んだ事もあるが、それが一番の理由だった。メタリックなブラウン系の細身のフレームにしたのである。
更には宝本賢三氏の自宅が取り壊されてしまった事。昇が殴られた空き家も同様に取り壊されて、隣接して
いる他の空き地等と一緒に一つの広い敷地になった事である。
『スーパーが出来るらしいわよ』
母親の情報である。母親の水江は時々美容院に行くが、そこで様々な情報を仕入れて来る。
そしてこれも特筆すべき事だろうけれど、桜山林果がとうとう全国模擬試験で女子トップになった。男女総合
でも五番目という快挙だった。
「へえーっ、凄いわね。この地方始まって以来の大秀才ですって。新聞に大きく載っているわよ」
母親は自分の事の様に自慢げに言った。
「まあ、大学は海外だそうよ。凄いわねーっ!」
凄い、を連発する母親の水江に昇の反応は今一つ鈍かった。彼にとってもう一つの話題の方が大きかった
かも知れない。
片岩倉小姫が世界チャンピオンになった事が小さく記事に載っていた。メジャーな大会ではなかったので扱い
が小さいのも仕方が無いが、
『世界チャンピオンになったからには、メイドの仕事は卒業なんじゃないのかな? もしどこか他へ行ってくれれ
ば……』
微かな期待感があった。出来ればもう一度林果と話をしてみたかった。例によって、
『何と無く……』
と、思っていたのだけれど。
やがて年も明け、母親の言う通り、宝本先生の住居跡には、全国に展開する万田屋系列の中規模スーパー
『万田屋梅ノ木店』が出来上がりつつあった。
そんな時に、大きな事件が起きた。昇の勤めていた、山の麓にあった全国チェーンのコンビニが倒産したの
だ。全国チェーンとは言っても、実質的には個人経営と大差ないのだが、その一番の大きな原因は一部地域の
過疎化である。
それほど小さな都市ではないのだが、より中央に近い位置へ人口が密集しつつあるのだ。山の中腹にあった
小学校が廃校になったのもその影響が大きい。
それに加えてスーハー教の教会内部に、以前からあった購買部をより拡大充実させた為に、コンビニに寄っ
てから教会に行く人がめっきり減った事にもよる様である。
「折角真面目に働いていたのに残念ね……」
母親が如何にも悔しそうだった。不幸中の幸いだったのは、新しく出来た『スーパー梅ノ木店』にアルバイトと
して三月三日、土曜日午前九時の開店早々から、実際にはその前日から雇われる事になったことである。
本当は正規の従業員になりたかったが、その為には、大卒で無ければ無理だった。まして高校中退など相手
にはされなかったのである。
彼の仕事はひたすら果物や野菜を仕分けしたり、ラッピングしたり、バーコードのシールを貼ったり、運び込
み陳列する事だった。勿論並べ方には工夫がいる。古い物は前に、新しい物は後ろや下に陳列する事は常識
である。
その他に腐った物が無いかどうかのチェック、値段などのシールがちゃんとしているかどうかのチェック、値
段と商品が一致しているかどうかのチェックも当然の様にやらされる。
アルバイトといえども、従業員に違いが無いから、他の部署の知識もある程度無いと拙いので、その勉強もし
なければならない。
正規の従業員は一ヶ月以上前から研修を積んでいる。アルバイトの者達は大半が前日の朝からの特訓だっ
た。その特訓の日、三月二日金曜日の事だった。思いもかけない驚くべき事があった。
『えええっ!! ま、まさか!!』
正規の従業員の中に、他の者達と同様にグリーン系の制服に身を包んだ、片岩倉小姫の姿があったのだ。
お偉いさんの一人が彼女を特に紹介した。
「えーっ、あるいはご存知かも知れませんが、こちら片岩倉小姫さんは、総合系格闘技女子の部の世界チャン
ピオンです。当万田屋グループと専属契約を結びましたが、一従業員としても働いて貰います。
それで彼女には仕事の終った後で格闘技の練習をして貰います。また当社のコマーシャルにも出演して貰う
事もあるでしょう。
しかし基本は当社の従業員であります。その様な契約になっておりますので、皆さん宜しくお願い致します。尚、
小姫さんの働いて貰う部署は、果物野菜の部、主任と言う事になりますので宜しくお願いします」
『……、終ったな。俺の人生は終りだ。あああ、絶望だ!!』
昇は目の前が真っ暗になった。よりにもよって、小姫が、自分を叩きのめした女が、格闘技の世界チャンピオ
ンが上司なのである。
しかし直ぐ思い直した。
『いや、もし今度あのような事があったら、事件にしてやる! 俺も首になるかも知れないが、小姫だってただで
は済むまい! あの時は桜山さんを警察にチクッたという引け目があったから、何もしなかったんだ。
だけど今度はそうは行かない! 殴れるものなら殴ってみろ! ただで済むと思うなよ、と言うのは俺の方なん
だからな!!』
昇は必死に負けまいと思っていたのだった。
「……、それでは皆さん宜しくお願いします」
果物野菜部の主任として、小姫は挨拶をして、銘々の作業に取り掛かった。彼女の下に正規の従業員が数
人いて、彼等がアルバイトの連中に指示を出す。
主任は刻一刻何の商品がどの位売れているか、パソコン画面上に表示されるので、それに従って商品の補充
などの指示を出すのである。勿論翌日の商品の仕入れ、何をどの位仕入れるかという難題もこなさなくてはなら
ない。
特に日持ちのしない野菜類の仕入れには、格闘技の世界チャンピオンと言えども、どうにもならない難しさが
あった。
小姫は以前、カス野郎と罵った昇を、一瞥しただけで特に何も言わなかったし、気にしている様でもなかった。
『知らない振りをするのか、まあそれも良かろう』
そんな風に思う昇の強い警戒心を知ってか知らずか、その日から数週間は何事も無く過ぎて行った。
少し変った事があったとすれば、小姫はテレビのコマーシャルに出演する様になったし、その凛々しい彼女の
姿が評判になって、しばしばテレビの番組にも出る様になった事位だろう。
ただそのお陰で、主任が不在である事もしばしばあって、代役の正規の従業員が酷く忙しいのだが、昇にとっ
ては彼女と顔を合わせなくて済んでむしろ良かった位だった。
しかし三月下旬、もっと信じられない事があった。
「新人のアルバイトの桜山林果です。宜しくお願いします」
あろう事か、林果が果物野菜部の一アルバイト要員として入って来た事である。主任の小姫が平然としてい
る所を見ると、二人の間では既に了解済みなのだろう。
ただ、その時の小姫の昇を見る目付きがかなり険しかった事は、
『林果にちょっかいを出したら、ただでは済まないわよ!!』
という警告の様に昇には感じられたのだった。しかし昇はその警告を無視しようとした。
『同じ果物野菜部の先輩として、色々教えたり、どうしてアルバイトをするのか、その理由を聞くのは人として当
然の事だ!』
と思ったからである。
『もしそれが許せないというのならば、お前の方が狂っている。今度は簡単にはやられないぞ!!』
昇はそう決心して、積極的に林果に話し掛ける積りだったのだ。
それでも数日間は小姫の監視が厳しくて、昇の決心とは裏腹に、実際には何も言えなかった。気持ちはあっ
ても体の方が言う事を聞かないのだ。
しかし四月の上旬にチャンスが巡って来た。小姫が新しいコマーシャルの撮影の為に、丸一日休むと連絡が
あったのだ。
「ふう、鬼のいぬまの何とかだな」
「はい?」
林果は急に昇の態度が変ったのでちょっと戸惑った様である。
「いや、その、林果さん、どうしてここのアルバイトをするんですか? お金に困っているとも思えないんですけ
ど?」
昇は従業員の休憩室で誰にはばかる事もなく堂々と聞いた。従業員用の制服姿の林果がかなりの美形だっ
たので、他の男の従業員達も何かと話したがったが、さらさらと話せる者はいなかった。
その為に昇が親しげに話し掛けた事で、一気に嫉妬のボルテージが上がったのである。しかしそればかりで
はない。
実は昇に気のある女子従業員も何人かいたのである。彼女達の林果に対する嫉妬心もまた一気に上がって
しまったのだった。
「父の命令なのよ。でも、詳しい事はここでは言えないわ」
林果は声を潜めて言った。どうやら大会社の社長令嬢である事は秘密の様である。
「ああ、そうなんだ。それだったら、別の話にするけど、勉強の方はどうなんだ? 相変わらずか?」
昇はなるべく当たり障りの無い言い方をした。
「まあね。ところで夏休みの教室の方は、どうしてる? 何か進展があった?」
「一応それなりにね。……ちょっとで良いんだけど、どっかでお話出来ないかな?」
「うーん、かなり厳しいけど、少し位だったら良いわよ。でも本当に少しだけですからね。それでも良ければ……」
「ああ、それで良いよ。じゃあ、また後で」
「うん」
二人の話はそれで終った。しかしたったそれだけでも、二人は今後窮地に立たされる事になる等とは思っても
みなかったのである。
「おい、昇! お前、桜山さんとはどういう関係なんだ?」
「その、ご近所さんなんで、知り合いということで、その……」
たまたま休憩室で二人きりになった時、早速、正規の従業員の上野岡銀次郎(うえのおかぎんじろう)という
青年に絡まれたのである。
「それだけじゃねえだろう? 夏休みの教室って何だ? 何の教室なんだ? 教えろよ」
昇は返事に窮したのだった。