夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
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「さて、会場内はしんとしておりますので、私も声を潜めて問題の事などについて少しご説明致しましょう。予
選では数値は四個のみでしたが、ここでは数値は五個出ます。ただし数値は予選の時より範囲が広く、一桁
から三桁までです。
既に出題された、これが第一問なのですが、少し引っ掛けもあります。『156−5÷7×63−449』と、こ
のような問題もあるのです。
これは最初の数値『156』から次の『−5』で、計算するのは誤りですし、二番目の数値からの演算『−5
÷7』は割り切れませんので、次の『×63』を先に計算した方が宜しい訳です。この種の問題はすぐれた記
憶力を要求されますので、より難しいものとなっております。
問題の提出時間は予選と同じ二秒ですが、解答は十秒以内となっております。尚、無解答は即座に失格
となりますので分からなくとも、何か数値を入力する必要があります」
相生方敬三アナウンサーはヒソヒソと言ったが、会場の部屋の外にいてガラス窓越しに中の様子を伺って
いるので、実際にはそれ程声を潜める必要は無いのである。その場の雰囲気を伝える為の演出だったの
であった。
ただ、テレビカメラや中継のアナウンサーが部屋の外にいる事は不思議な状態だった。そこのところの事
情は後で説明する事になっていたのだが、その奇妙な状況が、むしろ相生方アナウンサーにとっては楽しい
事のようだった。アクシデントに強い男のようである。
「それでは、今回の招待選手のプロフィールを、簡単にビデオにまとめてありますので、どうぞ御覧下さい」
本当は競技開始の前に紹介する予定だったのだが、その前にコマーシャルが入ってしまって、今頃紹介
せざるを得なくなったのである。しかし相生方アナウンサーは選手紹介などの手順が上手く行かない事にも
平然としていた。
三人の招待選手のうち、優勝候補ナンバーワンは、アメリカに在住する数学教授の中国人女性、ヤン・
フォーチュンだった。加減乗除の四則演算がバランスよく素早く出来た。
乗除算の得意な欧米のチャンピオンにはその方面ではやや劣るし、加減算の得意なアジア人、特にソロバ
ンを使う日本人にはやはりその方面で少し劣るのだが、両方をまとめた演算能力となると世界一と言われて
いる。
ビデオでは主に彼女の日常や学会での発表の様子、暗算の大会での戦績などが紹介されたのである。三
十五才、独身の才気溢れる女性であった。
他にヨーロッパから招かれた、乗除算の達人カリム・ソン氏、日本のソロバンの達人、苫米地和泉子(とま
べちいずみこ)が紹介されたのである。
「局の手違いから、三人脱落して残り六人となったところから本格的な中継となります。どうも、不正の事後処
理に手間取っているうちに、選手の人達や当方のスタッフと連絡が上手く取れなかったらしいです。
さてそれではコマーシャルです。コマーシャルが終りましたら、今度こそ、競技会場の中から中継致します。
いやー、このまま教室から締め出されてしまったままになったら、どうしようかと思いましたが、やっと何とかな
るようです。あはははは、コマーシャル!」
相生方アナウンサーの大笑いでコマーシャルタイムとなった。
「何だか様子がおかしいと思ったら、競技会場になっている部屋に入れなかったんだ。前代未聞だねこりゃ。
しかし相生方アナウンサー陽気だね。
実に良いキャラクターだよ。普通だったら顔が引き攣っていてもおかしくないところなんだけどね。貴重な存
在だな。僕なんかよりよっぽど大物なのかも知れない」
臨時スタジオの中ではコンポン君が河本アナウンサーと雑談をしていた。
「そうよねえ、羨ましい性格だわ。でもそれで魅力的と言えるかどうかはまた別ね。何だかただ能天気なだけ
のようにも思えるのよね。あっ、い、今のは彼には内緒よ」
河本アナウンサーはつい本音を言ってしまってから、慌ててコンポン君や周辺に居たスタッフに口止めをし
た。
「はははは、口止め料は幾らにしようかな? それとも『あっちの方』にしようかな?」
「もう、コンポン君ったら、まあ、その、あっちの方でも良いけど……」
言ってしまってから、河本アナウンサーは顔を赤らめて俯いてしまった。
「はははは、分かってますよ、冗談だってことぐらい」
コンポン君はあっさりとかわして、番組の再開を待った。間も無くコマーシャルも終り、番組が再始動を始
めた。
「さあ、今度こそ、バッチリ、中継して下さいよ、相生方アナウンサー。フラッシュ暗算の競技の模様をどうぞ、
お願いしまーーーす!」
「はーーーい! 先程は部屋の外でしたが、今は中におりますよ。予想通りと申しますか、一般参加の六人の
うち、三人脱落して招待選手三人と合わせて六人が熾烈な戦いをしております。
それではここまで残っております、予選通過者三名をご紹介致します。一人はアメリカ人の女性で日本の企
業で働いていおります、キャサリン・ロベルトさん。
二人目はそろばん塾の先生をしておられます、藤山寛治さん。そして、三人目はつい先ほど変則百メート
ル走で優勝したばかりの、お待ちかね、大黄河夕一郎さん!
この三人はなかなか手強いですよ。招待選手と言えども油断は出来ません。マイナスポイントは現在チャラ
になっているので、誰もありませんが、実力はほぼ拮抗しております。
さあ、ここからは問題のレベルが上がって、一気に片を付ける事になるようです。それでは次の問題始め
て下さい。用意、スタート!」
相生方アナウンサーのスタートの合図で、問題が各人のデスクのモニター画面上に提示された。
「−97、−135、÷29、×(−71)、×580、?」
二秒の間にこれらが表示された。マイナスの符号に注意する事と演算の順序を変えると演算し易い。しかし
たとえ正解でも、時間的に最下位ではマイナスポイントが付くので、出来るだけ早く計算する必要がある。
と言って急ぐと間違う可能性が大きくなる。暗算の達人と言えども容易ではないのである。この問題を大黄
河選手は正解したが最下位だったのでマイナス1点。
しかし藤山選手が焦って、解答は最も早かったが不正解だったので、マイナス2点になった。結局、その後
も、藤山選手は焦りが災いして解答にミスが続き、脱落してしまったのである。
「いや、焦りは禁物ですね。しかし私、実は焦っております。と言うのも、大黄河選手、次は格闘技の決勝トー
ナメントなのですが試合開始まで後一時間もありません。
勝ち進めば勝ち進むほど時間的にシビアになって参ります。これで本当に大丈夫なのでしょうか? むしろ
早く負けてしまった方が宜しいのではないでしょうか?」
「相生方さん、それを言っちゃいけないでしょう。大黄河選手にプレッシャーを掛けてどうするんですか!」
コンポン君はちょっとじれったそうに叫んだ。
「はははは、そうですね。それではフラッシュ暗算、サバイバルレースの再開です! 用意、スタート!」
一人が脱落すると、マイナスポイントは消滅するので、最下位に低迷していた大黄河選手のマイナス4点が
0点になった。辛うじて切り抜けたのだったが、不思議にも次もまた同じ事が起こった。
「大黄河選手、解答は何時も最下位かその一つ上なのですが、他の選手がミスをしてくれて、助かっていま
す。ついにここで、ヨーロッパの稲妻計算士、人間コンピューターの異名を持つ、カリム・ソン氏がよもやの無
解答で脱落です!
大黄河選手、絶体絶命のマイナス4点だったのですが、危機一髪、何とか助かりました。いやあ、本当に
強運の持ち主ですね。後、残りは四人です。さあ、どうなりますか。用意、スタート!」
相生方アナウンサーは時間の切迫を気にしながらの中継だった。
「いや、またやりましたよ。大黄河選手またまたマイナス4点だったのですが、予選トップ通過の、キャサリン
・ロベルト選手、前回ラストの解答でミス、マイナス3点。
今回はトップ解答でミスをしました。マイナス2点。合計マイナス5点で敗退です。いよいよトップスリーです。
大黄河選手何処まで幸運が続くのでしょうか? では、用意、スタート!」
相生方アナウンサーは少し顔をしかめた。刻一刻格闘技の決勝戦が迫っているのである。それが気になっ
て仕方が無いのだった。
「いや、何か凄いですね。恐らく日本中の期待が大黄河選手に集まっているのでしょう。尚、この競技の模様
は競技場の観客の方々にも、あちこちにある大画面で同時生中継されております。
皆さん手に汗を握って大黄河選手の活躍を見守っていると思います。もう間も無く最終の結果が出ると思
われます。
ただ、相生方アナウンサーが心配している通り、格闘技の決勝戦がもう直始まってしまいます。現在、大黄
河選手の試合を一回戦の最後に持って来る様に、要請しておりますが、どうなりましょうか?」
「そうですわねえ、ちょっと心配ですわね。でも強運の持ち主ですから、きっと大丈夫だと思いますわ」
河本アナウンサーは、先ほどの恥ずかしいアクシデントが尾を引いて暫く喋れなかったが、何とか喋れる
様になった。テレビで放映された訳でないので、何とか気持ちを切り替えられたようである。
「ははははは、またやりました! 大黄河選手絶好調です。二位と三位の間を行ったり来たりしたのですが、
なんとソロバンの達人の苫米地さんが手痛いミス。
しかも最下位でした。その前のマイナス2点が響いて、脱落です。大黄河選手今回はマイナス3点でした。
いよいよ最終決戦ですが、ただ今入りました情報では、格闘技の決勝トーナメントの一回戦がとうとう始まっ
たそうです。一回戦の最後の試合にしては貰いましたが、果たして間に合うのでしょうか?」
相生方アナウンサーは青くなって言ったのだった。