夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
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『取り敢えず高校に入っておけば? 取り敢えず大学に入っておけば? 取り敢えず一流企業に入ってお
けば? 取り敢えず天下っておけば?』
不思議な事だったがかつて感じた事のあるあの嫌な、取り敢えずの選択が頭に激流の様に流れ込んで
来たのである。そして、
『取り敢えず言う事を聞いておけば?』
止めの様にその言葉が突き刺さって来た。その時点で夕一郎の腹は決った。
『やろうとしている事は、金森田と大差無い。何だかんだ言いながら結局、俺の仲間の研究員達は人質と
同じだ。イエスも地獄、ノーも地獄だ。
ノーならお金をくれて全員無罪放免? いや有り得ないな。今回の計画には大統領も関与している。む
ざむざと見逃す筈が無い!
とすれば金森田の時と同様にイエスと言って従う振りをして、何処かで、何処かで、全てを暴露してやる!
あるいは、……あるいは何処かで、何処かできっと逃げ出してやる!
ああ、皆、ご免、林果、昇一、ご免! こいつ等の言う事を聞いても、結局最後は秘密保持の為に皆殺し
にされるのが落ちだ。そうならない様に全力を挙げるけど、出来なかったら本当に、ご免!!』
覚悟を決めてから返事をした。
「分かりました。仰る通りにやりましょう。ただ一つだけ注文があります」
暫く考えてから夕一郎はイエスと言い、更に注文を付けたのである。
「やってくれるのだね。それは良かった。それでその注文と言うのはどういう事かな?」
ゴールドマンは安堵した様子で夕一郎の注文を聞いた。
「年間、日本円で二百億円では予算が少な過ぎます。二千億円を要求したい」
「な、何だって? 二千億円? はははは、馬鹿な事を言う。二百億でもやっとの金額だ。金メダル百個も
取ったらまあ認められるだろうが、有り得ないだろう幾らなんでも!」
最初は笑いながらも、ゴールドマンは結局かなり怒って言った。
「ふふふふ、アメリカ政府がオリンピックの関係者に働き掛けて、例えば陸上競技の決勝戦がなるべくダ
ブったりしない様にするのですよ。そうすれば、かなりの種目で金メダルが取れます。
夏と冬両方のオリンピックで、合わせて百個以上の金メダルを取って見せますよ。要するに国家の威信が
あるのでしょう? 自由主義の国として共産圏の国に負けたくないのでしょう?
一人の金メダリストを作るのに今は数十億円は掛っています。しかもそれでも確実とは言えない。私だっ
たらアメリカ合衆国がスポーツにおいても世界最強の国家になれますし、それから上手くすれば頭脳スポー
ツの方面でも世界のトップを取れる。
何しろ体内にあるパソコンが実際に働いているのですから、その気になればチェスの世界チャンピオンや
暗算の世界チャンピオンになる事も可能です」
夕一郎は少し奥の手を見せた。テレビの番組でのフラッシュ暗算の時、実はその能力を使ったのである。
ただ徹底した使い方をしていなかったので、優勝出来なかったのだった。
「ほほう、チェスの世界チャンピオンねえ……」
チェスの世界チャンピオンと聞いてゴールドマンの気持ちが動いた様である。彼はチェスが得意で、全米
の大会でベストエイトに入ったこともあった位なのだ。
「分かった、なるべく希望に添えるようにしてみるよ」
ゴールドマンは一応の約束の積りで言ったのだったが、
「なるべくでは困ります。二千億が駄目ならノーと言うしかない」
夕一郎は強気の要求に出た。
「な、何だと! 下手に出ればいい気になりやがって! 減らず口を聞けない様にしてやる! ベンジャミン、
ケンピー、少し痛い目に合わせてやりなさい!」
ゴールドマンはとうとう本性を現した。
「ハリャッ!」
「ホリャッ!」
二人は胸のポケットからボールペンを取り出すとキャップを外して、夕一郎に突き刺そうとした。顔面、特
に目を狙っていた。
極めて素早く、一秒とは掛っていない。しかし、彼等は重大なミスを犯した。超人的な動体視力と俊敏さと、
腕力とを持っている夕一郎の凄さを十分に把握していなかったのだ。
その事を一番良く知っていたのは、実はシュナイダー博士だった。彼ならばこの様なミスは犯していなかっ
ただろう。
「ギャッ!」
「キャーーーッ!」
悲鳴を上げたのは、タイガー青年とマリン女史だった。二人は夕一郎が動かない様に、きつく押えていた
のだが、簡単に動かされ、ボールペン攻撃を二人とも頬の当たりに受けてしまったのである。
毒液が顔の皮膚に入り込み、忽ち激痛にのたうつ事になった。アメリカ空軍の研究班が密かに開発した、
激痛剤である。
命に別状は無いが激痛が数十分間続く。如何なる強者であっても立っている事すら出来ない、激痛が毒
液の注入された場所を中心に広がって行くのである。
しかしその効力は三十分ほどで、その後は何事も無かったのかのようにケロリとしている事になるのだっ
た。
凶悪な犯罪者を逮捕する時などに有効と考えられているのだが、実際に使用されたのはその時が初め
てだった。
「バンッ!!」
夕一郎はとうとう反旗を翻した。一瞬の内にドアを開け外に飛び出して行ったのだった。ドアには鍵が掛
けられていたのだが、夕一郎の凄まじい力は簡単にそれを破壊して開けてしまったのである。
「タ、タ、タ、タ、タ、タ、……」
夕一郎はひたすら走り続けた。
『もう、死んでも良い。いい加減疲れた。しかし、ただは死なない。やれるだけの事をやってから、逃げられ
る限り逃げてから、それから死ぬのなら死ぬ事にしよう!』
走りながらそんな事を考えていた。
「パンッ! パンッ!」
たまに銃の撃つ音が聞こえる。しかし、本格的に撃って来ないのは、地下の施設を破壊する事を避ける
積りがあるのだろう。
所々に剥き出しの配管があったりするが、それに当ったら大変な事になるらしい。その様な危険の無い
所に限って銃を撃って来る様だった。
だがそれもこれも彼等が夕一郎の能力に対して無知である事からだった。通常の銃では彼は倒せない
のだ。先程使った激痛剤も無論、彼には通用しない。
その無知が当面夕一郎には有利に働く事になるようである。彼の事を良く知るシュナイダー博士を簡単
に外してしまった付けが回って来たと言えよう。
勿論、肝心な事に関しては彼の仲間の研究員達は容易に口を割る事は無い。暗黙の了解で、彼の弱点
や逆に強い点などは教えない事になっていたのである。彼等が言うのは既によく知られている事ばかりだっ
たのだ。
『先ずは外に、地上に出ることだ。小型のエレベーターでは監視が厳しくて無理。大型のエレベーターは今
も稼動している筈だ。古くなった機材を運び出す事はしょっちゅうらしいからな!』
暫く走ると、誰も追って来なくなった。完全に見失ってしまったのである。しかも幸いな事に特に警報等は
鳴らなかった。
この様な状態で警報を鳴らす事は、ゴールドマン教授の失態と見做されてしまう事を彼は恐れた様である。
何より彼はシュナイダー博士の更迭を強く要求した男だったからでもあった。
『ふうむ、警報が鳴らないぞ。しめた、これだったら上手く脱出出来るかも知れない!』
夕一郎には警報の鳴らない理由までは分からなかったが、
『多分、事を密かに処理しようとしているのだろう』
と、推測した。ほぼ正確に推理していたのである。
大型のエレベーターの近くに行くと彼は翻訳機は外して手に持ち、素知らぬ顔で側に寄って行った。チラッ
と見た感じ何の情報も伝っていない様である。
そこには兵士はいなかった。通常の作業員が忙しく働いている。しかも上手い具合に、作業は終り掛って
いた。
「チェック、オッケー! ゴウ!」
間も無くエレベーターは動き出した。
「それっ!」
ごく小さく叫んで、夕一郎は動き出した十メートル四方位の大型エレベーターに飛び乗った。いわゆるドア
は無く、高さ一メートル位の柵があるだけなので、簡単に飛び乗る事が出来たのである。
「オオ、ノーッ!!
何人かの作業員が慌てて駆け寄って来た。しかし今更エレベーターを元に戻せない。作業が押していて、
少しでも早く次の作業に取り掛からなければならなかったからである。夕一郎は翻訳機を装着して、彼等の
叫びに耳を傾けた。
「何てことするんだ! この野郎!」
喧嘩っ早い男が殴り掛かって来た。夕一郎はあっさりかわして、
「済まない、謝るよ!」
と、謝罪したが、男は気持ちが治まらないらしく、再び殴り掛かって来た。しかも後ろからもう一人が羽交
い絞めにしようと寄って来たのである。
「ガンッ!」
二人の間を素早く潜り抜けた為に、同士討ちになってしまったのだった。作業員は十人ほどである。
「待ってくれ、俺を地上に出してくれ。俺はモルモットにされそうなんだ。頼む助けてくれ!」
夕一郎の声をしかし全員が無視していた。体形が小さい事もあって、ただ素早いだけだと思って、甘くみ
ているらしかった。
『仕方が無い。腕力は使いたくないけど……』
そう思いながら、また翻訳機を外して、脇の方に置くと、
「はりゃっ!」
掛け声諸共、一人を投げ飛ばした。更にもう一人、更にまた一人と投げ飛ばした。大怪我だけはしない
様に気を付けながら慎重に投げたのである。
特に投げ技の心得は無かったが、恐るべきパワーで、造作も無くほぼ全員を投げ飛ばす事が出来たの
だった。
二人ほどは恐怖心でエレベーターの隅の方に逃げてしまった。全員が戦意を失ったと感じたので、それ
から再び翻訳機を使って、自分の胸の内を話し始めたのである。