夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
17
結局昇は、林果と午後五時過ぎに彼女の部屋に入り、当初の予定通り午後八時過ぎにマンションから出て家
に帰ったのだった。約三時間二人で過ごした事になる。
しかしその事は、一部のマンションの住人にも、近所の者達にも、取り分け、スーパー万田屋梅ノ木店の従業
員達には分かってしまったのだった。
様々な事情から、二人に強い関心を持つ者達が、しきりに昇がマンションに何時入って、何時出て来たのか
を気にしていたからでもある。
午後八時で帰宅する女子のアルバイト数人に、昇はマンションから出て来る所を、バッチリ目撃されていたの
だった。私服を着ていたのと、暗かった事もあって、昇はその事には気が付かなかった。
片岩倉小姫が帰宅したのは午後九時頃だった。予定より一時間早かったが、林果は昇がいた証拠を出来る
限り消していた。
コーヒーカップ等を一つだけ洗って置くことは勿論の事、カップ麺も如何にも一人だけで食べた様に、一つの
空の容器は、細かく切り刻んで屑入れの下の方に入れて置いたし、割り箸なども同様に始末したのである。
しかし二人が一緒に三時間ほど過ごした事は次の日には小姫の耳に入ってしまったのだった。小姫は自分
が留守の間に、男子従業員が林果にちょっかいなどなるべく出さない様に、また出してしまった場合には直ぐ教
えてくれる様に、アルバイトの一人、立石川瑞希(たていしがわみずき)という若い女性に頼んで置いたのだ。
その種の正確な情報を提供すれば、一万円のチップが貰えるのである。瑞希は勿論そのチップを手にしたの
である。
「林谷君、ちょっと特別室に来てくれないかしら?」
小姫の険しい表情から、昇は林果との関係を糾弾されるのだろうと思った。
「あのう、仕事の方は……」
昇は少し渋った。
「直ぐ済むから、早く来なさい!」
小姫は問答無用で言った。
「はい」
昇は仕方無しに小姫の後をついて行った。特別室というのは、主に万引き等をした者を、取り調べたりする
部屋だった。従業員に落ち度があった時、厳しく叱ったりする部屋でもあった。
「警告しておくわね。もう一度このようなことがあったら、林果お嬢様にちょっかいを出す様な事があったら、貴
方は首よ。
私は彼女のお父様から厳しく言われているのよ、もし林果お嬢様に何かあったら、私が首になるのよ。分か
るかしら?
貴方もそうでしょうけど、私も首は嫌だわ。私は林果お嬢様のお目付け役として、主任にもして貰えたし、他の
人よりも高い給与を貰っているのよ。
もう一つ言わせて貰えれば、分不相応な恋愛は必ず破綻するわ。月とスッポンとまでは言わない。貴方とお
嬢様とでは住む世界が違うのよ。
深みにはまる前に諦めなさい。これが最後の警告ですからね。分かったかしら? 私が言いたいのはそれだ
けよ。後は貴方次第ね。じゃあ、もう仕事に戻って良いわよ」
殆ど一方的に小姫は言って、自分の仕事に戻って行った。
『首か、くそっ、どうすれば……。こうなったらケータイでメールのやり取りする位しかないな。畜生、小姫に何も
言えないんだよな!』
心の中では昇は激しく反発していたのだが、身体が言う事を聞いてくれない。一度味わった激痛という恐怖を
二度と味わいたくない、彼の肉体はその様に反応していたのだ。
彼の給与は低い。やっと十万を少し超える程度なのだ。自宅に住んでいて、働く場所も徒歩数分の位置にあ
るから何とかやっていけるが、アパート住まいだったらアップアップになってしまう。
仮に林果と結婚という事になったらどうだろうと、昇は考えてみた。
『素敵なマンションで優雅に暮らしている林果は、きっと俺の自宅じゃ満足出来ないだろうな。やっぱり身分が
違い過ぎるのか?』
そう考えると、諦めるべきかも知れないと思ってしまうのだが、
『だけどやっぱり林果を失いたくない。初めてだったのに最高のキスだったって何と無く分かる。林果だってその
筈だ。俺達は間違いなく愛し合っているんだ! ……焦らない方が良い、諦めないぞ!!』
そんな風に思い直して仕事に戻って行った。
林果と昇はその辺りからケータイで、メールのやり取りをし始めた。トイレに入った振りをして短いメールを出
しておくのである。互いにそうした。直接には殆ど口を聞いていない。
『マンションで会うのは拙い!』
『何処が良い?』
『思案中!』
『了解!』
そんな風にごく短いやり取りである。長くトイレに居ると疑われるのでそうした。
しかしやっぱり埒が明かないので、夜になると、パソコンで、予め約束していた、無料のチャットルームに入っ
た。鍵を掛けて二人きりで話し合うのだ。
実際には筆談同様になって電話より面倒だが、何より話し声を聞かれる事が無いのが良かった。ケータイでも、
殆ど同じ事が出来るのだが、チャットのスピードが桁違いなので、それは余り考えていなかった。
昇のハンドルネームは『のぼった』、超有名アニメの主人公で、前に似ていると林果に言われた事がある。林
果は『りんご』とした。
ありふれたネームの方が、うっかり第三者に見られた場合、逆に固有名詞を特定出来ないだろうと思ったの
である。
のぼった:今晩は!
りんご:今晩は! その、愛してる!!
のぼった:俺も、超愛してる!!!
りんご:キスして!!!
のぼった:チュッ!! チューーーーーッ!!!
りんご:私もチューーーーーーーーーーーッ!!!! 超嬉しい!!!!
暫くラブラブなチャットが続いたが、パソコンの前で昇は大きく溜息を吐いてから、現実の問題に入って行った。
のぼった:何処で会う?
りんご:いっそ、ラブホにする?
のぼった:保留。その前にちょっと聞きたいことがある。
りんご:何?
のぼった:どうしてスーパーでアルバイト?
今度は林果がパソコンの前で溜息を吐いた。少し気持を整理してから書き始める。
りんご:父の命令。海外留学の必須条件だと言った。
のぼった:海外留学の必須条件?
りんご:うん。アメリカのマッサーズ工科大学に九月に入る積りだけど、七月下旬の入学試験の日までバイトし
ろって。
のぼった:どうして?
りんご:父は留学に絶対反対なのよ。世間の厳しい風に当てて諦めさせる積りみたいよ。
のぼった:げっ、なんちゅう親じゃ!! 子離れ出来ておらんじゃないか!!
昇はパソコンの前で実際激高した。
りんご:そうなのよ。小姫さんに監視させているのもその為なのよ。
のぼった:げっそり! ところで今思いついたんだけど、女子の友達は居る?
りんご:女子の友達? 居るけど、まさか紹介してくれなんて言うんじゃ……。
のぼった:違う! カムフラージュだよ。女子の二人連れだったら、俺と会うとは考え難いと思うんだ。今度の早
番は二人ほぼ同じ時間帯だろう?
りんご:うんうん。
林果にも昇の意図は見えて来た。
のぼった:女友達と一緒に市民図書館に行って欲しい。俺は変装して行く。
りんご:ええっ!! 変装!!
のぼった:ああ、服装を変えてサングラスを掛けて行くだけだけどね。中に喫茶店があるからそこで会おう。女
友達とは図書館の中で別行動をして貰えば良い。
りんご:なーるほど!! 頭良いね!! 帰りは?
のぼった:出来れば同じ女子と一緒に帰って貰いたい。それと口の固い女子で無いと拙いんだけど。
りんご:オール了解。うってつけの子が居るわ。任せて!
のぼった:それじゃあ、今日はこの辺で!
りんご:うん。その前に、キスして。もっとエッチな事もして欲しい!!
のぼった:うん、チュッ!! チュッ!! チュッ!! チューーーーーーーーーーッ!! オッパイ揉み揉み
揉み揉みーーーーっ!!
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二人のラブラブなチャットは、かなり激しくエッチに盛り上がってから、やっと終ったのだった。
『うーん、拙いぞ!!』
昇はベットに潜り込んでから大いに反省していた。
『林果は受験生だよな。チャットに二時間近く掛けている。勉強の妨げになっているんじゃないのか? 足を引っ
張らない様にもっと短めに切り上げよう。三十分ぐらいにね。
しかしもしばれたら? 首か? うーむ、兎に角ばれないようにしよう。今はそれしかない。でも、喫茶店じゃキ
スは無理だよな。
いや、余り考えない事にしておこう。今後の事は喫茶店で話し合おう。先の事は先の事。今は眠っておくこと
だ!』
昇はそう結論を出して眠りについた。しかし林果はまだ受験勉強をしていたのだった。それから五時間ほども
勉強してから夜明け少し前位にやっと眠りについたのである。幸いだったのは次の日は彼女が遅番だった事
である。昇の方は普通番だった。
それから何日か経って決行の日がやって来た。市民図書館は数年前に駅前の十階建てのビルに引っ越して
来ていた。
その多目的総合ビルには、図書館の他に映画館、レストラン、喫茶店、病院、ゲームコーナー、理・美容院、
エステ、コンビニ、薬局、等々宿泊施設と生鮮食品の販売以外はほぼ揃っていた。
直ぐ隣がホテルだったし、反対側の隣は小規模のスーパーになっているので、狭いスペースに全部が揃って
いると言っても過言ではない。
しかもその三つの施設は共通の広い地下駐車場を持っていて、外に出なくても行き来出来るのだった。雨や
冬の雪の日、特に風の強い日等には頗る重宝する。
目的の総合ビル『デ・アリータ』は、出歩く、という意味と、何でもあり、という意味の両方を兼ねた物だという。
駅前に本当に近いのでバスの便が実に良いのだ。
その日は生憎の雨。しかし傘はバスに乗ってしまえば不要といっても良かった。アーケードが続いていて、ほ
んの一時雨に濡れる事を覚悟しさえすれば、傘など邪魔なだけである。
昇にとって都合が良かったのは、バスの始発停留所が徒歩一分の所にあった事である。発車時刻五分位前
にひとっ走りすれば大して雨に濡れる事も無い。バスは大抵発車十分位前には待機している。
パソコンやケータイで連絡しあって、同じ乗り物では行かない事にしていたので、林果とその友人、久米原香澄
(くめはらかすみ)とはバス停も近かったのだが、やはり傘は持たずに敢えてタクシーで行く事にした。
「一分でも早く行って勉強するのよ」
そんな口実をつけていた。勿論タクシー代は林果の奢りである。