夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
18
駅前の総合ビル『デ・アリータ』には喫茶店が二軒ある。一つは一階に、もう一つは今回の待ち合わせ場所、
六階の軽食喫茶『マリナー』である。
マリナーというのはアメリカの惑星探査機の名前であるが、それにちなんでいるらしくて、その喫茶店の至る
所に太陽系の惑星の写真が飾ってあったし、探査機の模型らしきものも天井から何機か吊り下げてある。
昇がその場所を選んだのは、それらの展示物に興味があった訳ではなく、単に見晴らしが良いという理由か
らだった。
予定した時間は一応午後五時だったが、生憎と丁度その時間帯には土砂降りの春の雨になっていた。時は
四月下旬、まだ肌寒かった。
「ふう、ほんのちょっとアーケードが切れているんだけど、随分濡れてしまったな」
独り言を呟きながら、昇にしては珍しく幾分黒ずんだレンガ色のズボンにレンガ色のシャツだった。それに
薄っすらと瞳の見えるサングラスを掛けている。
そのサングラスには度が入っていないので、人の顔等はかなりぼやけている。ただ極端な近眼ではないので、
人違いをするほどではない。
濡れた服を少し気にしながらも、昇は店の前で林果が来るのを立って待っていた。館内は暖かく、徐々に服が
乾燥して余り気にならなくなった辺りに、予定から三十分以上も遅れて林果がやって来た。しかも更に予想外の
事があった。
『えっ! 一人じゃないぞ、どうしてだ?』
昇は戸惑った。ビルの中に入って直ぐ別行動を取る予定だった筈である。林果は明るい感じの細身のズボン
と長袖のブラウス。
女友達の方は林果より少し背が高くてスタイルが良く、丈の短い大胆なミニスカートとまだ肌寒い時期だとい
うのに半袖のブラウス。上下とも光沢のある淡い色調のものだった。羨ましいほど脚の線は綺麗だった。
「しょ、紹介します。その、私の友達の久米原香澄さん。こ、こちらがお話した、林谷昇さん」
林果は蒼ざめた顔で二人を紹介したのだった。
「林谷です、宜しく」
「久米原です宜しくね」
香澄はそう言うと、手を差し出して握手を求めた。きらきらと光るネイルアートが目に眩しかった。
「ああ、素晴しく綺麗ですね、ネイルアートって言うんですか、これ?」
一応そう言ってから、握手に応じた。
「あ、有難う御座います。ふふふふ、こんなに真っ直ぐ誉められたのは初めてです。さ、流石ですわね」
香澄は嬉しそうに微笑みながら、うっとりと昇を見詰めていた。
「ちょ、ちょっと、そろそろ別の場所に行って欲しいんですけど!」
林果は語気を荒げた。
「あら、ふふふふ、そうね、じゃあ、また後でね。バイバイ!」
香澄はやはり微笑みながら手を振って去って行った。目付きに何か妖しい感じがあった。
「ま、まあ、入ろうか」
「は、はい」
とんだ邪魔が入ったが、二人は連れ立って軽食喫茶『マリナー』に入って行った。平日の割りに結構混んでい
た。
ただ学生のカップルが殆ど居ないのは値段が高いからだろう。コーヒー一杯が四百円というのは、この街にし
ては相当に高い方なのだ。
二人は窓際の席の中では、唯一空いていた席を確保出来た。二人ともカフェオレを頼んで、直ぐ話に入る。
「約束がちょっと違う様な気がするけど? 言ってなかったかな?」
「御免なさい。一緒に行くんだったら、どうしても昇に会わせろって聞かなかったのよ」
「うってつけの人が居るって言ってなかったか?」
昇の言い方は優しい。
「そう、高校に居た時は私の子分みたいな子だった。も、勿論彼女が勝手にそうしていたのであって、私がそう
しろとか命令した訳じゃないわよ」
林果は慌てて言い繕った。
「うん、何と無く分かるよ。俺が中学の時にもそういう奴が居た。その頃は俺は勉強もスポーツもかなり良く出来
たからね。俺に憧れていたのか、いっつも子分みたいに勝手にくっ付いて来た男子が一人、二人いたな」
昇は懐かしい感傷にちょっとの間浸った。
「お待たせしました、カフェオレ二つお持ち致しました」
ウェートレスは何気ない振りで、しかし実際には二人の関係をあれこれ想像しながら、
「どうぞごゆっくり」
と言って、昇の方を見てから去って行った。
「何、今の人、何か変だわね!」
林果は女の直感と言うのだろうか、ウェートレスが昇に興味があるらしい事を見破って不快だった。
「まあ、それは兎も角として、さっきの、なんて言ったかな、あははは、名前忘れちゃったよ」
「香澄、久米原香澄よ」
「そうそう、その香澄さん、えらくめかし込んでいた様な気がしたけど、誰かとデート?」
「うん、ちゃんと彼氏がいて待ち合わせしているのよ。もう、変われば変わるものだわ。彼女は地元の大学に
入ったんだけど、エステとかに行って磨いているみたいだし、ああ、あの、やっぱり、ネイルアートとかした方が
良いかな?」
林果は昇が香澄のネイルアートをべた誉めしていた事を気にしていたのだった。
「いや、何もしなくて良いよ。俺はこの手が好きだよ」
昇はカップを持っていた林果の右手を左手で軽く撫でたのだった。
「ひっ!」
危うくカップを落としそうになった。電撃の様な快感が一瞬だが全身を走った気がしたからである。
「ああ、危ない、危ない、ふう!」
昇は慌てて両手を添えてカップごと林果の手を包み込んだのだった。
「もう、……うふふふふっ」
林果はカフェオレの入ったカップを下に置いてから、嬉しそうに少し体をよじって笑った。
「はははは、感じた?」
昇は小声で言った。林果はニヤニヤしながら、コクリと頷く。
「申し訳ない。そんな積りじゃなかったんだけど、兎に角俺は余り化粧していない手の方が好きなんだから、勿
論滑々(すべすべ)の手に限るけど、ネイルアートなんかやらなくて良いよ。ただ手入れだけは怠らない様にし
て欲しいな」
昇は実感のこもった言い方をした。
『ふふふふ、最初に出会った時には、最悪の男だと思ったのに、こんなに好きになるなんて信じられないわね。
でもますます好きになってる』
喫茶店での言わば初デートの目的も忘れて暫(しば)し陶酔していた。
「さあて、ああ、だけどもう六時か、何か食べようか?」
特に夕食の事は考えていなかったのだが、何やかにやで、もう六時を少し過ぎていたのである。店はますま
す混んで来てほぼ満席になった。
「うん、私はパスタの、そうね、デザート付きの特製カルボナーラにするけど、昇は?」
「そうだな、俺もそれにするよ。名前はたまに耳にするけど、カルボナーラって今まで一度も食べた事が無いな」
昇は正直に言った。テーブルに備え付けの呼び出しボタンでウェートレスを呼んで、注文すると、
「かしこまりました、特製カルボナーラお二つで御座いますね」
前に来たのと同じウェートレスだったが、今度は昇の方を特に見なかった。しかし帰り掛けにチラッと昇を見
てから去って行ったのである。
「な、何なのよ、あの人、不愉快ね! 今度来たら文句を言ってやろうかしら!」
林果は激高して小さな声でだったが怒鳴ったのである。
「いや、それはその、余り事を荒立てない方が……」
昇はハラハラして言った。
担当のウェートレスは二十五才位。胸もお尻も大きいグラマラスな体形で、顔立ちもそこそこ綺麗だから尚更
気に触ったのである。
『色目の使いっぱなし! なんていう嫌な女なんだろう! 二度とはここに来ないわよ!』
林果は昇の周囲にいる女達に強い警戒心を持ち始めていた。彼女の想像を遥かに超えて昇は持てるのであ
る。しかしそのことに昇本人は殆ど気が付いていなかった。
「さて、何から話そうか?」
昇の提案に林果は直ぐ反応した。
「その、一つ言っておきたいんだけど、ここには余り来たくないから、次は別の場所にしましょうよ」
「あ、ああ。分かった」
昇は林果が担当のウェートレスが気に食わないからだと直ぐに分かった。
「そのう、それから、遅れて来て御免。香澄とかなり揉めて時間が掛っちゃったのよ。何しろここに来る直前に
ダブルデートにするとか、彼氏に会わせろとか言って、てこずらせるものだから、喧嘩みたいになっちゃって大
変だったのよ。
暫く会わないうちに、すっかり変わってしまっていた事に気が付かなかった、私が悪かったのよね。高校の時に
は何を頼んでもハイハイって二つ返事でしてくれたのにな……」
「ふうん、大学に入って、エステとかで綺麗になって、持てる様になったから変わったんじゃないの? 俺は全然
持てないからそこの所は良く分からないけどね」
昇は本心でそう言った。
「ええっ! そ、そうね、彼女、綺麗になったものね」
林果はドキリとした。
『昇、自分が持て持てなのに気が付いたら、私を振っちゃうかも知れない!』
そう思うとちょっと冷やりとした。
「それでその、もう香澄とかは連れて来ないけど良いかしら?」
林果はなるべく話題を逸らそうと思って言った。
「うん、そうだな。今度みたいになったんじゃ、カムフラージュの意味が無い。別々に家を出てどっかで落ち合う
しかないな。変装もやらない事にするよ。何だか余計目立つ気がするからね、はははは」
昇は目立たない様にしようと思って、かえって目立っている事に気が付いて苦笑したのである。
「そうね、普通にすれば良かったんだわ。ここの最上階にレストランがあるから次はそこにしましょうか?」
「うーん、良いけど、でも高そうだけど、値段が……」
昇もレストランの一つが最上階の十階にある事は知っていたが、店頭まで行って、値段の高い物しかない事
に驚いて引き返した事があったのだ。
「うふふふ、じゃあ、今日は奢って下さい。その代わり次は私が奢りますから」
林果は余裕を持ってそう言ったのだった。
「あ、ああ、じゃあ、そうしよう」
昇はちょっと迷ったが、
『この際、その種のプライドは捨てよう。経済力では目茶苦茶な位、差があるんだからな……』
そう割り切る事にしたのである。何よりも林果と一緒に居る事を優先したのであった。