夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
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「えっ? 何と言ったんだろう?」
翻訳機を使わなければ流暢な英語では全く理解出来なかった。日系人らしい少年や少女に聞こうとも
思ったのだが、それもバツが悪くて止めた。
『日系人だからと言って日本語を話せるとは限らないからな。ああ、何でこうなるんだ?』
夕一郎は一番後ろに居て、他の連中の真似をした。力を入れない様にするのが、逆に難しかった。
「パワーアップ!」
スーザンはもっと力を入れるように号令を掛けているようである。基本の突きや蹴りを出す練習である。
「ハイ・キック!」
スーザンが足を真っ直ぐに伸ばしてそのまま上にあげる技を披露して見せた。自分の額すれすれに打
つのである。右足、左足、右足、左足と二回ずつ手本を見せた。
先ずは額に軽く当てるところまで練習するのだが、場合によっては肩越しに背後に迫る人物の顔面を
蹴る技にもなるのである。股関節の柔軟さが要求される。
「ライト、レフト、ライト、レフト!」
皆一生懸命やるのだが、初心者では額に届かないどころか、せいぜい百二十度位しか上がらない。夕
一郎も上がらない振りをしていた。
人間の関節ではない彼の股間は百八十度どころか二百四十度でも開脚可能だった。勿論出来ない振
りをしていた。
一通り練習が終ると、最後は防具を付けての実戦練習である。夕一郎は防具も別料金で買わされてい
た。ただ、流石に、実戦練習ともなると、小学生を相手にする訳には行かなかった。
『どうやら、俺はスーザンと練習試合をするらしいな。ううむ、ちょっと困ったぞ。わざと負けてはプライドが
傷つくだろうしねえ。それに何時までも初心者の振りをしているのは疲れる』
思案していたのだが、とうとう自分の番が来てしまった。自分とスーザンの試合で今日の練習は終わり
になるようである。
「タガイニレイ! ハジメ!」
審判は初心者クラスの中では一番強いらしい、中学生の少年が勤めることになった。どうせ勝負になる
まいと思ったらしく、形ばかりの審判であった。試合開始の号令は一応日本語だった。スーザンは相手
が初心者という事で防具は付けなかった。
「タッ!」
夕一郎は少し気が引けたが、軽くボディにグラブを着けた右手で、間違った様な感じで一発入れた。
「ウググググッ!」
スーザンはもう起き上がれなかった。手加減した積りだったのだが、少々強過ぎた様である。
「ああ、済みません。アイム、ソーリー!」
僅かに知っていた、英語で謝った。
「どうしたの? グラブを外してたりしてない?」
女子の上級者と練習していたキャサリンが慌てて駆け寄って来たのだった。
「はははは、ラッキーパンチが入っちゃったんですよ。まぐれです」
夕一郎は偶然を強調した。しかし、三級ともなれば初心者の腹部へのパンチで、簡単に参るほど弱くは
無い筈である。
「あなた、何か不正をしたんじゃないの?」
キャサリンが疑いの目で夕一郎を見た。
「とんでもない。ただの偶然ですよ」
夕一郎の言い訳をキャサリンは信じなかった。
「じゃあ、私とやってみましょうか? 断っておきますけど、インチキは私には通用しないわよ!」
「困ったな。女性を殴る事はなるべく控えたいんだけどね」
夕一郎は少女の顎を粉々に砕いた事を後悔していて、余り女性と対戦する気にはならなかった。今も力
の入れ加減を間違えてしまったので、尚更である。
「ええい、問答無用! こっちへ来て私と戦いなさい!」
余程自信があるのだろう、強気に命令した。
「いや、私は女性とは戦わない。今ので懲りたのでね。力の加減が難しいのですよ。……あ、しまった!」
夕一郎はつい本音を漏らしてしまったのだった。
「何ですって、じゃあ、女だから手加減したって言うの!」
キャサリンはカッとなった。
「いや、そ、そういう訳では……」
二人が言い争いをしていると、上級クラスの男や女達も側に寄って来た。キャサリンが英語で説明する
と、数人の男女が激しく怒り出したのである。どうやら何らかの不正行為を、正当化しようとしていると受
け取ったらしい。
「騒がしいな。どうした!」
騒ぎを聞いて、ガストン師範代がやって来た。
「この男が、卑劣な手段でスーザンを倒したので懲らしめてやろうとしていたんです」
「そんな、何の証拠があってそう言うんだ! 何も手に持ってないだろう!」
夕一郎も少しムッとした。
「だったら私と戦いなさい。どうして逃げるんですか! やましい事があるからでしょう!」
キャサリンは何処までも食い下がって来る。
「だから、女性とは戦いたくないと言っている。女性を殴りたくないんだ」
夕一郎はウンザリしながら同じ言葉を繰り返した。
「ほほう、だったら、私とやってみるかね?」
ガストンは夕一郎が数千ドル位は持っていると思っていた。その金を全額奪い取る方法を今思いついた
のである。
「どうしてそうなるんですか? 私は初心者ですよ?」
夕一郎はなるべく戦わない方向に持って行きたかった。
「この男はさっき、手加減したと言った。女だから手加減したと言った。ということは初心者の振りをしてい
た事になる!」
キャサリンの激しい口調は更に増していた。
「そ、それは言葉の綾ですよ。あんまりきつく言うから、つい言ってしまったのであって……」
「ハリャッ!」
ブラックベルトの男がいきなり夕一郎に殴りかかった。困った事に反射的にかわしてしまったのだった。
「オオオーーーーッ!!」
その場に居合わせた殆どの連中が驚きの声をあげた。
「はははは、君は素人じゃないね!」
ガストン師範代はかなり険しい目で睨みながら言った。あわよくば、お金で解決しようと思っていたので
ある。
『二千ドルで許してやろうと思っていたのに、こいつは飛んだ食わせ物だ!』
自分も騙されていたと思うと無性に腹が立って来た。
「ああ、子供達を帰しなさい。大吾君の処分はその後という事にしよう」
ガストンは既に夕一郎を半殺しにする事を考えていた。有り金全部を奪い取って何処かに監禁し、場合
によっては餓死させようとも考えていたのである。
ガストンの一声で、上級者以外は全員帰された。怪我をしたスーザンは二人の女性の道場生に付き添
われて病院に向かった。
ブラックベルトとそれに近い力量の男女数十人が、夕一郎を何重にも取り囲んでいた。絶対に逃すまい
と考えていた様である。
「ふうん、どうする積りですか? ただ、皆さんが襲って来るのであれば、私も反撃しなければならなくな
りますよ。なるべく手加減はしますが、大怪我をするかも知れませんよ」
もうここに至っては、初心者を押し通す事は不可能だった。
「何を寝言を言っている。君は我々を愚弄した。腕に覚えがあるのに初心者だと謀(たばか)った罪は重
いぞ。
それほど腕に覚えがあるのだったら、我々に対してさえも手加減をしなければならないのだったら、全員
と戦って貰おうか。嫌とは言わせないぞ!」
ガストンは一応師範代らしい言い方をした。一斉に襲い掛かったのでは指導者としての資質を疑われ
そうに思えたのだ。
「ふうん、試合をするのですか? それだったら良いでしょう。ですが女性は外して欲しいですね。軽い怪
我じゃあ済みませんからね」
「まだ言うか! 私と最初にやれ!」
キャサリンは相変わらず気性の激しさをうかがわせている。先ほどの夕一郎の身のこなしから、並の力
量でないことは分かっていたのだが、それでも自分が負けるとは思えなかったのだ。
「仕方が無いですね。怪我をしても知りませんよ。良いんですね?」
夕一郎は念を押した。
「ああ、女に二言は無い!」
まるで武士の様な言葉を吐いて二人の試合は始まる事になった。ルールは殆ど無く、どちらかが失神
するまで戦う事になった。
審判も無く、ただ誰も加勢はしないという約束の元で試合は無言のまま始まったのである。加勢し難い
様に別室のリングの上での闘いとなった。リング下には数十人が自分の番を待って待機していた。一対
数十人。無謀と言えば無謀な戦いである。しかも夕一郎自らが防具を外す事を要求し、全員防具無しで
戦う事になったのだった。
「タッ!」
「ギャッ!」
意気込みとは裏腹に、勝負は一秒でついた。スーザンの時と同様に腹部に一発パンチを叩き込んだだ
けだった。
ただ、スーザンの時よりは強めの一撃だった。級の差は一つだけだが、キャサリンの方が数段強いと分
かっていたからである。
「バタンッ!」
あっけなく倒れ伏してしまった。
「おい、早く介抱してやれ。顔がマットに付いていて呼吸出来ていないぞ! 窒息して死ぬぞ!」
夕一郎は大声で叫んだ。他の道場生の動きが鈍かったのは、余りに彼が強く体が硬直してしまって動
けなかったからである。
夕一郎の叫び声で、やっと数人の女性の道場生達がリングに上がって来て、気絶したキャサリンを連れ
て行った。女性達はそのまま誰も戻って来なかった。
リングのある部屋の中には男性しかいなくなった。しかも大半は恐怖心で怯えていた。
「さあ、次は誰だ! 自信が無かったら二人でも三人でも掛って来な。何だったら全員一緒でも良いぞ!」
夕一郎はもう面倒臭くなって来た。何よりも空腹感が激しくなって来て、何かしら怒りが込み上げて来て
いたのである。