夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
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「ソーリー、……」
しかし、ウェートレスが英語で断っているらしかった。夕一郎は翻訳機を使いたかったが、生憎とバッテ
リー切れで使えなかった。
スティーブンスの部下達の激しい銃撃の嵐に晒された時でも、ポケットに入れて置いた翻訳機だけは守
り通していたのである。
彼が随分あちこち銃に撃たれた理由の一つは、実はそれだったのだ。他の部分は撃たれてもポケットの
部分だけは撃たれない様に無理をした為に、余分に撃たれてしまったのである。
もう一つの弱点、それが本当の弱点なのだが、それは眼だった。損傷しても致命傷にはならないのだ
が、正に視力を失ってしまうのである。
それでは行動が殆ど出来なくなってしまう。しかもそこが弱点だと見破られない様に、さり気無く防御して
いたのである。
だからこそ全身に銃弾を受ける羽目になってしまったのだ。幸いにもそれは誰にも見破られていないよ
うだった。
「残念ですが、そのメニューは現在品切れになっております。申し訳御座いませんが、別のメニューにして
頂けないでしょうか?」
ウェートレスの言葉を翻訳して教えてくれた者があった。ガストンだった。
「ガ、ガストン。あ、有り難う。終ったのか?」
「はい、綺麗になりました。ここにいる事はユカリ達に聞きました。食事が終りましたらいらして下さい。そ
の間にもう一度点検しておきますから」
「ああ、分かった。小一時間位掛ると思うから、その間寛いでいてくれないか」
「了解致しました」
ガストンは丁寧な口調で、手短に用件を言って退出して行った。
「残念ですがジャパニーズ・スープ・パスタは品切れだそうですよ。どうします?」
「はあ、がっかりしますね。えっ? あれっ? ラーメンもあるんですね。ミソ・スープ・ラーメン、ああ、これ
にしよう」
泰治は夕一郎が英語が出来ると思い込んでいるので、翻訳して貰えると思って気軽に言った。
「プリーズ、ジィス、ワン。アンド、ジィス、ワン」
如何にも英語を言っているように見せかけて、実際には、最小限度の英語しか使わずに、メニューの
写真を指差して、注文した。
夕一郎自身は例によってホットコーヒーだけの注文にしたのだった。アメリカ人女性のウェートレスは納
得してその場を去ったのである。
『さっきは良いタイミングで、ガストンが入って来てくれた。ふう、助かったな。出来るだけ翻訳機の事は秘
密にしておこう。うっかりするとこれが弱点の一つである事を見破られてしまう。弱点は少ないほど良いか
らな』
夕一郎はホッとした気分だった。
「ああ、外は雪ですね。でも何だか不思議です。外国、取り分けアメリカでも雪が降るんですね。それに日
が傾くのが早い。まだ午後四時位なのに、もうかなり暗いですからね。
でもあれですね、ここ数日間は何処へ行っていらしたんですか? 何とかという道場だったんですか?
知り合いの方にお会い出来たんですか?」
矢継ぎ早に泰治は聞いた。夕一郎と一緒である事が何とも心強く、口がおのずと軽くなったのだろう。
「残念ながら、会えませんでした。道場では手荒な歓迎を受けましてね。またちょっとやってしまったんです
よ。自分の不徳の致す所です。なるべく穏やかにやりたいのですが、どうも周囲を巻き込んでしまう所が
ある気がします」
夕一郎は余り詳しく話をしなかった。その直ぐ後、泰治はトイレに立った。七十代の男性は何かとトイレ
が近い。
『本当はマッサーズ工科大学の敷地内の寮を見て来たんだよな。近くのホテルに泊まって、観察して来た。
寮と言っても、六階建ての、日本だったら正しくマンションだったよなあれは。
ああ、割合近くで林果と昇一に出会った。歩道を歩いていたけど林果は正に科学者という感じになって
いたし、昇一はそろそろ小学生か? やんちゃな盛りだった。可愛かったな』
夕一郎は薄暗くなった、雪の降るビルディングだらけの街並みを眺めながら、数日前の事を思い出して
いた。
『名乗りたかったけど、名乗る訳には行かない。俺はお尋ね者だぞ。きっとゴールドマン教授は俺を探し
当てる。
下手に名乗ったりしたら、俺が捕まったり、捕まりそうになった時、林果や昇一に迷惑が掛るかも知れ
ない。出来れば元の林谷昇に戻りたい。しかし無理だ! 俺は死んでいるのだからな!』
「カフェ、プリーズ!」
そのうちウェートレスがコーヒーを持って来た。泰治はまだ戻って来ない。年配の男性のトイレは何かと
長いのである。更に考えに浸る。
『あの二人がしっかりと生きていて安心したよ。ただ、このままむざむざ死ぬのも癪だ。出来ればより完
全な体を持ちたい。
その為の研究費は最低でも年間数千億円は掛る。ゴールドマンにそう言いたかったんだが、言葉足ら
ずだった気がする。
しかもどうもゆっくりしていられない気もするんだよな。俺の精神状態がそう長く持たない気がするから
ね。性欲も食欲も何時までたっても充足されないから、限界が近い気がするんだよな……』
「ミソ・スープ・ラーメン、プリーズ」
「ああ、私です」
ウェートレスがみそラーメンを運んで来たのと、泰治がトイレから戻って来たのが丁度一緒だった。
「さて、頂きます!」
泰治は喜んで、みそラーメンを食べたのだったが、
「何じゃこりゃ! これじゃあ、味噌汁ラーメンじゃないか!」
泰治はがっかりしながら少し怒鳴った。
「ああ、そのようですね。ス−プの色からしてそんな感じだ。しかし、確かに、メニュー通りですよね」
夕一郎が言うと、
「ど、どうしてですか?」
泰治は納得しなかった。
「いや、メニューにはミソ・スープ・ラーメンとありますからね。ミソ・スープはつまり味噌汁の事です。それに
ラーメンが具として入って、ミソ・スープ・ラーメンなんじゃないんですか?」
「えええっ、そりゃ、そうですけど、日本じゃ、みそラーメンと言えば、味噌汁ラーメンの事じゃないんですけ
どね……」
「ここは日本じゃありませんからね。知らないんでしょう、きっと。クレームをつけても駄目そうですね」
夕一郎は笑いをかみ殺して言った。
『日本にさえも、こんなまがい物のみそラーメンがあると聞いたことがある。ましてここはアメリカだからね。
本場のみそラーメンは、札幌にでも行って食べた方が良いんじゃないのかな?』
そんな風に思いながら、
「日本に帰った方が宜しいんじゃないですか? お金は差し上げますから、商売を始めても良し、離婚して
別の女性と結婚するのも良し、その他色々な選択肢がありますけど、日本食は日本で食べるのが良いん
じゃないでしょうか?」
帰国を勧めたのだった。
「ズルッ、ズズッ、……」
文句を付けながらも、泰治は一応ラーメンらしく啜った。
「いや、まだもう少し、考えさせて下さい。イメージは違いますが、不味くはないですから」
それなりに美味そうに汁も全部飲み干したのだった。
「えへへへ、それに、女遊びの方も、やり残していますしね」
ちょっと顔を赤らめながら、泰治は言った。
「そうですか。そうですね、遊べるだけ遊んでから帰られても良いですね。その方が踏ん切りも付けられる
でしょうからね」
夕一郎は自分が遊べない分、泰治には十分遊んで行って貰いたい様な気がしていた。
「で、でも、大丈夫ですよね。檻に入れられるという様な事は無いですよね?」
少し心配気に泰治は言った。
「はい、暫くはここに居ますから。私がいる限り、変な真似はさせません。ここ二、三日中に少なくともこの
ホテルだけは、犯罪の無い健全な大人の遊び場にしてしまう積りです。ですから安心して遊んで下さい」
「ああ、そうですか。それを聞いて安心しました。色々言う人があるかも知れませんが、もう残り少ない人
生です。存分に遊べるだけ遊んで、吹っ切れたら日本に戻ります。それで良いんですよね?」
泰治は念を押した。
「はい。いずれここの管理はSH教がする事になると思います。宗教と風俗店と相容れないと考える人が
いるかも知れませんが、私はそうは思わない。
人を救うという観点からすれば同じ事だと思いますから。どちらも癒しになる筈ですからね。それこそ批
判する人がいるのでしょうが、聖職者の仮面をかぶった犯罪者や、暴力団とつながりのある風俗店のど
ちらも否定するつもりです」
「SH教が管理するのですか? それと暴力団との決別は難しいのではありませんか?」
泰治は自分の人生経験からそう言った。
「だから宗教団体が管理するのですよ。それだけの組織力がなければ、暴力団にとても太刀打ち出来ま
せん。警察だって殆ど無力ですからね。
性欲を否定する宗教や否定はしないまでも極力抑えようとする宗教は愚かです。自分は性欲を超越し
たと豪語する人があるかも知れませんが、それは単に一個人の事情に過ぎません。
より多くの人が明るく笑って暮らせる世界。それの何処が問題なのでしょうか? ここに来れば性欲を
何時でも充足出来る。
そうなれば気持ちが何と楽になる事か。まあ、そう単純には行かないでしょうが、出来るだけ理想に近
付けたいと考えています」
夕一郎はとうとうと自説を述べてから、
「そろそろ行きましょうか?」
席を立つ事にしたのだった。