夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
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「主役は貴方なのですから、心配は要りませんわ。それに学校の勉強をする訳ではありませんし。ただ
成績によって今後の学習の仕方を若干変更するらしいですわ。
地上からの司令は全て英語ですし、様々な機器の名称も英語で表記されているでしょうからね。英語
は駄目なんですか?」
「はい。全然駄目です」
「ゼロ?」
「イエス」
「ふふふふ、返事だけは英語なのね。きっと何とかしてくれると思うわよ。いざとなったら貴方がこの地球
を救うのですからね。他に誰もいないのですから」
「そ、そうですね。何かそれを聞いて安心しました。それじゃ、お休みなさい」
「お休みなさい、ふふっ!」
林果は笑いながらその場を去った。眼鏡を掛けているし、地味でカジュアルな感じの服装なので、魅力
はかなり押えられてはいるが、それでも笑顔はやはり素敵だった。
『ふう、段々以前の感覚が戻って来る。困ったな、好きという感情を抑えるのが相当難しい。ううむ、情欲
が爆発しなきゃ良いけどね……』
夕一郎は絶対に自分の秘密を明かさないという決心が、多少ぐらついて来ている事を感じた。
それから間も無く、林谷昇の時からずっとそうだったように、疲労回復の為にもお風呂に入ることにした。
「ふう、良い風呂だな。明日は水中実験と学力テストか。水中は得意中の得意。しかし学力テストは苦手
中の苦手。何か極端な事を一日で体験するんだな。待てよどっちが先なんだ?」
独り言を呟いて、考えたが、
『普通なら、テストが先なんじゃないのかな?』
そう思った。そのうち風呂に浸かったままで眠ってしまった。何度か経験があるが、水中に没したまま、
朝まで眠っていた。
無論その様な事はサイボーグだから出来る事。それと、外国の特に欧米の浴槽は浅いので、体を伸
ばすと、そのまま水中に没しやすいのである。
しかもすっぽり入れる位の大きさの、キングサイズの浴槽なのは、夕一郎が日本人である事を意識し
て用意したものなのだろう。
「ふーっ! ありゃ、水の中だったか。ふふふふ、サイボーグになってから時々やるんだよね。さて上がり
ますか。ああ、しかしどうにも腹が減ったな。
この感覚はやはり捨てざるを得ないだろうな。人間らしさを失う事は嫌だが、宇宙に行くと行っても、二、
三日のことじゃあなさそうだし。
問題は性欲をどうするかだ。……それまで失ったら俺は一体何なんだ! しかし満たされない状態が
続いている事は酷く辛い。ああ、どうすれば。……駄目だ分からん!」
人間の三大欲求のうちの二つまで失ってしまったら、
『自分は人間ではなくなる!』
そういう思いがあって大いに迷っていた。
「あのう、そろそろ時間ですが……」
ドアをノックしてから林果が声を掛けて来た。幸い、風呂から上がり、すっかり準備が整っていた事も
あって、
「はい、今行きます!」
空腹ではあったが、元気良く応える事が出来た。
「ええと、どっちが先なんですか?」
「はい?」
「ああ、その、学力テストと水中実験です。普通は学力テストが先ですよね?」
「ああーっ、その事ですか。今朝早く連絡があったんですけど、両方一緒に実施するようです」
「ええっ! 両方一緒ですか? でもどうやって?」
夕一郎には見当が付かなかった。
「良く分からないのですが、水中でテストをするようです。私には信じ難いのですが、一切器具を使わずに
大ちゃんは水中で何時間も居られるそうですね?」
「はははは、実は昨夜も風呂に入ったまま眠ってしまって、朝まで風呂の、その、浴槽の底にずっと沈みっ
ぱなしだったんですよ。サイボーグにしか出来ない芸当ですけどね」
「えええっ! それで何とも無いんですか?」
本当に驚いて林果は言った。
「はい、なんともありません。昔、ソード・月岡氏が水中潜水実験をやって見せた事があったのですが、
本当は何でも無い事だったのです。SH教の信者の人達から、多額の寄付金を貰う為に見せたショーだっ
たのですが、良心が痛みました。
勿論、最近はそんな事を一切していません。ただ、ソード・月岡氏や大黄河夕一郎の残した一切の記録
は、出来るだけ早く抹消すべきです。これは是非シュナイダー博士にお願いしておきたい事なので、近々
話してみる積りです」
「そうですか、そうですわね。言い難いですけど、偽りの記録ですものね。ちょっと惜しい気がしますけど」
「ただ、まあ、サイボーグとしての記録という事で残す手はあると思いますけどね。でもサイボーグになる
人なんてもう永遠に出て来ないかも知れない。だとしたら記録としての価値があるのかどうか……」
夕一郎は寂しげに言った。
「でも、貴方の生きた証になりますわ。仮に今回の計画が予想通りに行ったとして、貴方が小惑星『ニュー
アメリカ』の軌道を変えて、地球を救う事になったとしたら、貴方は英雄だわ。そんな時貴方の生きた証が
何も無いなんて寂し過ぎるわ!」
意外なほど激高して林果は言った。
「はははは、何も起らないかも知れませんよ。確率なんて要するに当てにならないことなのですから」
夕一郎は安易に言ったが、
「とんでもない! 情報は刻一刻変化しています。シュナイダー博士は『ニューアメリカ』の軌道の地球と
のクロスの確率を訂正しました。昨日の大会議室での発表より十倍も高まっています。
博士が憂慮しているのはクロスする確率が高まる一方だという事なんです。もうのんびりしていられる
状態ではないんです!」
林果はかなり激しい口調で言ったのである。
「ああ、そ、そうですか。俺が寝ている間に大変な事になっていたんですね。はははは……」
夕一郎は笑って誤魔化した。
『確率は本当はもっと高いなんて言えやしないよな……』
心の中だけで言うのに止めたのだった。
「ここが水中実験室です。縦、横、高さ共に50メートルの巨大な水槽があるんですよ。水中に宇宙船の一
部の実物大の模型があります。そこで様々な作業をして頂きます」
そう言いながらドアを開くと、昨日の重力加速度実験室の時よりも数倍も多い人がいた。総勢は百人以
上であろう。
「パチ、パチ、パチ、パチ、…………」
夕一郎にも、林果にも予想出来なかったのだが、大きな拍手が湧き起こったのだった。勿論、直ぐに夕
一郎は翻訳機のスイッチを入れた。充電は昨夜の内に済ませてある。
「はははは、いや、今日は皆期待に胸を膨らませているのですよ。呼吸系の器具を一切使わずに、本当
に長時間水中に滞在していられるのかをね。
ああ、桜山さんご苦労様。一応今日の貴方の仕事は終わりです。これから大黄河氏には最低でも五時
間、長ければ7、8時間、ひょっとすると9時間以上も作業やテストを続けて貰うかも知れない。
気に掛りますか? もし終わりが気になるのでしたら、終る少し前にお知らせしましょうか? それとも必
要は無いですか?」
博士は林果の気持ちに配慮した。
「私は別に何もその、あ、で、でも、終る少し前に連絡して下さい。さ、最後の面倒は私がみますから。そ
の、宜しくお願いします」
林果は頭を下げて博士にお願いした。
「あああ、はい、分かりました。ではその様に致しましょう。君達は必ず林果さんに連絡を入れて下さいよ。
必ずですよ!」
博士は自分の配下の者達にかなり厳しく言い渡した。
「はい、必ず連絡致します!」
数名が確約した。それを見て林果は自分の部屋に帰って行った。
「さて、それでは、今日の実験を始めます。大黄河さん、一応宇宙服を着て下さい。ただ、今までのそれ
とは違って、極めて簡略な物です。酸素ボンベは付いていないのですからね。
温度調整用の機器は付いていますが、主なものはそれだけですからね。じゃあ、係りの者は大黄河君
に新しい宇宙服を着せて下さい」
博士の司令で夕一郎は簡易宇宙服を着せられた。普通の宇宙服だと背中にかなり大きな生命維持装
置が付けられるのだが、彼に限ってはそれがごく小さい物だった。
「ほほう、実にスリムですね。それでは係員達と一緒にプールに入って貰いますか」
夕一郎は本来の宇宙服に身を包んだ、四、五人の男女と一緒にプールに飛び込んだ。比重がほぼ
1.0で水と同じに調整してある為フワフワと水中を漂う感じになる。泳ぐとも歩くともつかない様な感じ
で宇宙船の実物大の模型に接近して行った。
言語は全て英語。翻訳機無しではどうにもならない。夕一郎は冷や汗を掻きながら、博士や一緒に作
業をする男女と連絡を取り合ったのだった。
『ええと、ハッチを開けて、中に入る。ええっ! 宇宙船内でいきなりテストかよ。参ったな。文章題が英語
だったら全滅だぞ。分かっているのかな?」
夕一郎は思わぬ展開に顔をしかめたのだった。
船室に入る前の小部屋で排水作業などもあって、小一時間ほどもかけて宇宙服を脱ぎ、更に中に入っ
て行くと、デスクとイスとが用意したあった。全員そこに座ってテスト用紙の配布を待つ。
『ええっ! 俺だけがテストを受けるんじゃないのか?』
夕一郎には実に不思議だったが、共同作業をする女三人、男二人共にテストを受けるようである。夕一
郎もそうだったが、他の五人もテストを受ける意味が理解出来なかった。全ての鍵はシュナイダー博士が
握っているのである。
暫くして、別に一人の男性研究員が宇宙服を着て宇宙船に辿り着いた。皆と同様に船室に入る前に宇
宙服を脱ぎ、抱えて来たテスト用紙を配った。
『ああ、日本語だ!』
夕一郎の問題文だけ日本語だったので、先ずは一安心だった。