夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
2
その日の夜、昇は随分早く眠った。久々の山歩きは、早寝にはほど良い疲労だったらしい。何時もなら深夜
でなければ寝付かれないのだが、午後九時には既に熟睡していた。その為なのか、次の日の朝はやたら早く
目が覚めてしまった。
『ええっ! まだ朝の五時じゃないか! 早過ぎるぞ! もう一度寝よう!』
しかし眠れなかった。ベットの上でゴロゴロして相当粘ったが、結局どうしてもそれ以上は眠れなかったのだ。
「仕方が無い、起きるか!」
そう呟いて起きたのは午前六時少し前だった。
「早いわねえ、ご飯はまだよ……」
母親もその頃に起き出して、朝食の支度に取り掛かり始めた所だったのだ。
「ちょっと、散歩して来るから」
昇は何時ものカジュアルな服装で外に出た。近眼なので、勿論眼鏡は掛けている。しばしば散歩している川
の土手の方へ向った。
早朝の散歩は暑くなり過ぎていなくて気持が良い。ところが、
『夏休み未来教室……』
いきなりその言葉が頭に浮かんで来たのである。
『変だな。『夏休み』は今の時期の事だし普通だけど、『未来教室』って何だ? ……あれえ?』
昇は土手の上を歩きながら、その奇妙な言葉の響きがやけに気に掛ったのだった。
「ピポピポピポ……」
そのうちにケータイの呼び出し音である。
「朝ご飯が出来たから帰って来て」
「ああ、分かった」
昇は朝食もそこそこに、
「ええと、今日はちょっと遅くなるかも知れない、……」
母親に昨日の取り壊し寸前の小学校の所で行われる、教室の事を話した。
「まともなんでしょうね?」
母親は胡散(うさん)臭く思っていた。
「大丈夫だと思うよ、つまらなかったら直ぐ帰ってくるし、何かを売るとか、新興宗教団体とかと全然関係なさそ
うだから」
「そう、それだったら良いんだけど。必ず連絡を入れなさいよ」
「ああ、必ず連絡するよ。じゃあね」
「行ってらっしゃい!」
母親は昇の健康状態を最も心配していた。まだ体調は必ずしも万全とは言えなかった。病気の影響で無理
のきかない体である事を案じていたのだ。それは昇も自覚していた。ただ極端に過激な運動をしなければ、
大丈夫とは医者に聞かされていた。
しかし例えば高校時代の体育の教師は外見だけを見て
「病気した事を口実に、サボりやがって!」
と、聞こえよがしに罵ったことさえある。
何時も体育は見学だったし、それは医者の勧めであったのだが、見た目元気そうなので、病気だという事は
単なる口実だと思っていたようである。
『チェッ! 人の気も知らないで!』
昇は逆にその体育の教師を心の中だけで罵っていた。何故なら、昇は運動大好き人間だったからである。
病気をするまでは体育の成績は何時もかなり良かったのだ。
『運動大好き人間が、運動出来ない状態であることがどれだけ辛いか、何も分かっていない!』
そう思うと、ムカつくし、そしてそれが彼のコンプレックスのかなりの部分を占めていたことも事実だった。
『まだちょっと早いな。あの山の麓のコンビニに寄って行くか?』
全国チェーンの二十四時間営業のコンビニだった。早朝にやっている事は有り難かった。
『ええっ! 今朝は随分人が居るな……』
8月5日、土曜日の午前八時前だというのに、予想以上に客が居てビックリした。
「どういう講義なんですかねえ?」
「さあ、金森田大先生のお友達と言うのだから、宗教の講義では無いとしても、哲学的なお話なんじゃないんで
すか?」
「そうなんでしょうか?」
「それにしても、未来教室と言うのは何だか良く分かりませんね、吉野川(よしのがわ)先生はどう思われます
か?」
「さて、検討もつきませんね。まあ、一応金森田大先生の顔を立てて、参加だけして、後は適当に口実を付け
て帰れば良いんじゃないのかな?」
「それもそうですね、このくそ暑い時に、冷房も無い小学校の教室を借りて、長時間の講義をする方がどうかし
ていますよね。案外ていの良い、寄付金集めだったりするんじゃないんですか?」
「暑さで、ぼーっとさせといて、高額の寄付金をせしめようなんていう手合いじゃないんですかね、ははははは」
「きっと、そんな所ですよ、あの貧乏ったらしい姿から見ても、そうに違いないですよ、あはははは……」
「わーーーっ、ははははは……」
コンビニの一角で四、五人の中年の男達が、大笑いをしていた。コンビニの中にしてはちょっと珍しい光景で
ある。昇はそれと無く話を聞いていたのだが、
『前評判はかなり悪いな。帰るか?』
そう思った。しかし、八時二十分位になって、ぞろぞろとコンビニを出て山を坂道を登り始めた者の中に、若い
女性が数人居るのを見て、
『まあ、一応、講義とやらを見るだけ見てやるか』
と、急に態度を変えた。勿論彼女達に興味もあったが、
『意味不明の、『夏休み未来教室』を、あの女の子達はどう聞くのだろう?』
その事にも関心があったのだ。
他の連中に歩調を合わせて、ゆっくり歩いて二十分位で元小学校に着いた。気に掛る若い女性達はどうや
ら女子大生のようである。
直ぐ側に寄るのは恥かしかったし、離れ過ぎるのも嫌だったので、素知らぬ振りで即(つか)ず離れず歩いて、
ほぼ一緒に一階の教室に入った。
教室は大入り満員だった。窓は全開していたが、予想通りかなりの暑さで、むせ返っていた。うちわや扇子で
パタパタ扇いでいる者が殆どだった。昇は何も持って来ていないので、しきりにハンカチで汗を拭った。
昇が気に掛けている女子は三人で教室の後ろで立ち見だった。彼も真似をして、数人を置いて横に立って、
それと無く彼女達を見たり、まだ始まらないかと腕時計代わりのケータイで時間を見ていたりした。
午前八時五十分頃に、もてない男の六大要素を持った、白衣を着た研究者然とした男がやって来た。
「本日はお忙しい中、また、この暑さにも拘らず、ご来場下さいまして、まことに有難う御座います。まだ少し早い
のですが、今回の講義のご注意点などの説明に入らせて頂きます。
えー、チラシをお持ちの方はそれを見て頂ければ分かると思いますが、二時間講義して一時間の休憩、また
二時間講義して一時間の休憩となります。それを何度か繰り返して行くのですが、一応最終的には午後九時に
終了予定です。
もし、講義内容にご不満の方は、その休憩時間中にお帰り下さい。講義中に帰られたり、あるいは野次などを
飛ばされない様に、くれぐれもお願い致します。最初の講義は午前十時からなのですが、その前段階として、
講義内容の前提条件をお話致します。
それをお聞きになって、ご不満の方は午前十時の講義開始の時間までにお帰り下さい。ここまでは宜しいで
しょうか?」
「はい!」
三十代位の前の方の席に座っている男が手を挙げた。
「ああ、どうぞ」
「前提条件が気に入らなかったら、直ぐ帰っても良いのですか?」
「はい、即刻帰って頂いて結構です。一応前提条件の提示は九時半までで終了として、それから三十分休憩の
後、本来の講義を始めようと思います。まあ、講義と言っても、質疑応答の時間が殆どだと思いますが。それで
宜しいでしょうか?」
「分かりました」
「他に何かご質問は御座いませんか?」
もてない男の六大要素の講師はそう言うと、教室中を見回したが、特に意見は無さそうだったので、
「それでは、前提条件の中の一つをお話し致します。私は皆さんに、まあ一部の人達にではありますが、スー
ハー教を始めとして一切宗教には関係ないのだと申し上げました。
念の為に申し上げますと、イデオロギー、思想信条等とも関係が御座いません。そこの所を誤解の無い様に
お願いして申し上げますと、『神は存在しない』、これが第一の前提条件です」
そう言ったのである。
「ええっ!」
先ず複数の者の驚きの声が上がった。
「はい!」
先ほど質問した男が手を挙げた。
「どうぞ!」
「帰っても良いんですよね?」
「はい、お気に召さなければ、どうぞお帰り下さい」
「はははははは、馬鹿馬鹿しい!」
男はそう言うと、軽蔑の眼差しで講師を一睨みしてから、立ち見の者を掻き分ける様にして教室の外へ出て
行った。
「私も帰らせて貰う! ふんっ、何が未来教室だ。下らない!」
コンビニで吉野川先生と言われた男がそう言って帰ると、その後に続いて、次々に帰って行った。すし詰め状
態だった教室はがら空きになった。多分百人ほどもいた受講者達は二十人ほどになってしまったのである。
『俺も帰ろうか?』
昇はどうしようか迷ったが、三人の女子大生風の女性達がまだ残っていたので、
『も、もう少し頑張ろう』
そう思って、残る事にした。
「あのう、後ろの方に立っておられる方々、どうぞ、席が空きましたので、なるべく前の方にお座り下さい。これ
から第二の条件を提示しますので」
多くの受講者達が帰ってしまったのにも拘らず、講師は平然としてそう言った。
『まるで、こうなる事を予見していたみたいだな……』
前から三列目位の席に座った昇は、同じ列に座った三人の女性をチラッと見ながらそんな事を考えた。しかし、
『えっ、もう一人若い子が居るぞ。女子高生じゃないか?』
それは見覚えのある制服だった。昇の中退した高校の生徒に間違いなかった。女子は彼女を含めて四人だけ
だった。
「それでは、第二の条件です。世界は物質で出来ている。物質でないものは存在しない。従って『人間は完全に
物質である』、これが第二の前提条件です」
「ええっ!」
第一の条件の時と同様に、複数の驚きの声が上がったのだった。