夏 休 み 未 来 教 室 


                                              春 野 夢 男

                               20


 外の雨は少し小止みになって来た様だった。軽食喫茶『マリナー』の店内には空席が目立つ様になって来て
いた。ラストオーダーは午後八時三十分。閉店は午後九時になっていた。今は午後七時三十分。
 癒し系のスペースサウンドが控えめに鳴り響いている。先ほどまでかなり賑やかだった頃には昇と林果の話し
声は直ぐ側のテーブルの辺りにまでしか聞えなかったが、今はもっと遠方まで届いている様である。

「逆転の発想? どういう事?」
「どうしてそんな風に誰も考えて来なかったのかちょっと不思議な位なんだけど、それはこういう事さ。俺が存在
しようとしまいと、この宇宙はびくともしない筈だ。
 にも拘らず、俺は存在している。同じことが他の皆にも当てはまる。顕微鏡で無ければ見えない様な、ささや
かな生命体であっても、そこには自分がある。
 吹けば飛ぶ様な自分の存在。無くても良いのに何故存在する? いや、そうではない、どうあっても無ければ
ならないんだ。
 無くても構わないのに、確かにあるという事は、この宇宙の法則、大自然の法則が、そうなっているのだという
事を表しているのだと思う様になったんだよ」
 昇は確信を持って言った。

「えっと、ど、どういうこと?」
 林果には昇の言った言葉が理解出来なかった。
「別の言い方をしてみよう。クローン人間って聞いたことがあるだろう?」
「え、ええ。完全に同一の遺伝子を持つ複数の生物を作るとか言う事でしょう? 人間でも可能だとか何だとか」
「うん。その時、もし俺じゃなくて、もう一人の俺がここにいるとすれば、何が違うのだろう?」
「えーとそれは生まれ育った環境が違うとか……」
「環境も同じだったら?」
「うーん、それは、そんな事は有り得ないと思うんだけど……」
「仮にの話なんだけど?」
「えーと、……」
 林果には昇の意図が掴めなかった。

「そんな風に考え込まずに、簡単に答えれば良いのさ」
「まさか、何も違わないとか?」
「ああ、そういう事。ところが一つだけ決定的に違うんだよね。何だろう?」
「な、何も違わないと今言った。矛盾しているわ!」
 林果はちょっとムッとした。

「はははは、説明が足りなかったな。自分以外のもの全てを何と言ったっけ?」
「他存在でしょう?」
「そう、つまり、林果さんにとって、他存在としては完全に同一だという事なんですよ」
「はい? えっと、ううう、御免なさい、ついて行けないわ」
 林果は焦った。何時も誰よりも素早く物事を理解していた。少なくとも議論で負けた事は今まで一度も無かっ
たのだ。その自信が砕け散ってしまったのだ。

「そうだな、こう考えれば良いよ。俺と瓜二つの人間がいたとして、時々入れ替わる。俺ともう一人の俺とは、コ
ミュニケーションが完全に取れていて、あらゆる情報を共有していると考える。
 この時、つまり今現在、林果はどっちの俺と相手をしているのか分かるのか、ということだ。そして実はさっきト
イレに行った時、本当は入れ替わっていたとする。でも違和感は無い筈だ。実は俺は昇のアンドロイドなんだよ。
気が付かなかったろう? ふふふふ」
 昇は幾分気味悪く笑った。 

「えええっ! ま、まさか! そんな筈は……」
 林果は青くなった。
「まあ、今のは冗談だけど」
「ひ、酷ーーーいっ!! うううう、ほ、本気にしちゃったのよ今!! もう、脅かさないでよ!!」
 林果は顔をしかめながら、半分泣いて言った。

「御免、御免。何とか分かって貰おうと思って言ってみたんだけど、もう一度説明する。俺の存在は林果にとっ
ては他存在なのだという事だ。何しろ自存在、自分以外のもの全てが他存在なのだから当然なんだ。
 それを悲しいとか悔しいとか、感情的に考えずに、宇宙の真理として考える。その様な事が普遍的に成り立つ。
つまり自分自身は認識出来るかどうかを別にすれば常に存在する。
 それと同時に他存在もまた常に存在すると考えるのさ。何時でも何処でも常にその法則が成り立つと考える。
そうすると今まで見えて来なかった定数、『存在定数』という概念が見えて来る」
「…………………………………」
 林果は沈黙した。全くついて行けなかった。昇はそれ以上の説明は無意味と考えて、
「どうだろうそろそろ今日の所は、終りに……」
 と、そこまで言った時だった。
「まだ話中だったの? ねえ座っても良いでしょう?」
 突然やって来たのは、香澄とその彼氏だった。当り前の様に、香澄は林果の隣に座り、彼氏は昇の隣に座っ
た。

「い、今帰ろうと思っていた、ところなんだけど?」
 林果は香澄を邪魔そうに扱った。
「まだ良いでしょう? ああ、紹介していなかったわね、こちらが私の友人の鳥山健太(とりやまけんた)君よ」
「あの、鳥山健太、通称、山健(やまけん)です宜しく」
 顔も体格も良い山健はそつなく自己紹介した。しかし林果は納得しない。

「友人? 彼氏でしょう? 何時の間に格下げになったのよ!」
 林果はかなり厳しい言い方をした。
『香澄は昇を狙っている!』
 そう思うと内心穏やかではない。 

「ふふふふ、ああ、あの、私は、アイスコーヒー。あの、昇さんもアイスコーヒーで良いかしら?」
 やって来たウェートレスに香澄は即座にそう言いながら昇の返事を待った。
「えっ! ま、まあ、……」
 昇はつい承知してしまった。咄嗟には断れなかったのだ。
「おい、俺を差し置いてそれは無いだろう?」
 ムッとした表情で山健は言った。

「はははは、御免なさい、じゃあ、アイスコーヒー四つ。私の奢りよ」
 香澄は四人のリーダー風な言い方をした。
「わ、私は、……」
 林果は断ろうと思ったのだが、
「いいえ、アイスコーヒーで良いわ」
 昇に合わせる事にしたのだった。

「アイスコーヒー四つで御座いますね?」
「はい、お願いします、ふふっ」
 香澄は微笑みながら楽しそうに言った。
「少々お待ち下さい」
 ウェートレスは感情を表に現さない様にして、微笑みながらその場を去った。その四人の間で一波乱有りそう
な印象を持ちながら。

「うふふふふ、綺麗な男ね……」
 随分大胆な言い方をして、香澄は昇をうっとりと眺めていた。
『俺が綺麗? まさか、そんな筈は無い。この女、少しおかしいんじゃないのか?』
 香澄に綺麗と言われながら、昇は全くその言葉を信用しなかった。

『自分の顔は、誰よりも自分が一番良く知っている。鏡で見た俺の顔はとても見られたものじゃない。俺に比べ
たら、山健とか言う男の顔は、正にイケメン。
 ハンサムだし、背も高いしプロポーションも良い。誰が見たって、香澄さんあんたに、ピッタリだよ。あんたも美
人そのものだ。お似合いのカップルじゃないか? どうして俺なんかを見詰める?』
 昇には香澄の心情がさっぱり分からなかった。

「お待たせ致しました。アイスコーヒー四つ、お持ち致しました」
「はい、有難う、ひょっとすると、また何か頼むかも知れませんので宜しくね」
「はい、承知致しました。午後八時半にラストオーダーとなっておりますので、宜しくお願い致します」
「分かりました、時間は守りますから」
「それでは失礼致します」
「はい」
 香澄は何とも調子よく応対した。

「ねえ、昇さん、私と付き合う気は無いかしら?」
 アイスコーヒーを飲みながら、香澄は爆弾発言をした。
「ええっ!」
 香澄以外の三人とも驚きの声を上げた。一番ムカついたのは山健だった。

「俺を振る積りなのか、香澄! もう他人じゃないんだぜ俺達は。俺に抱かれた事を忘れたんじゃないんだろう
な!」
 激しい口調で山健は言った。
「月とスッポンなのよね、昇さんと貴方とじゃ。別れましょうよ、ここで!」
 香澄は大胆過ぎるほどの発言をした。

「な、な、何だって!! こんな、こんな男と、お、俺と、天秤に掛けるなんて! い、言っておくけどな、俺は女に
不自由している訳じゃないぞ。……ああ、分かったよ。もう、絶交だ!! このくそ女!!」
 山健は香澄を激しく罵って去って行った。 

「い、良いんですか? あんなに怒らせちゃって。今ならまだ間に合うんじゃないんですか?」
 昇は気が気では無かった。
「ふふふふ、全然構わないわ。変な言い方だけど、私、男に不自由していないのよ。でも、昇さんみたいな男は
一人もいない。
 もう一度言うけど、私と付き合って欲しい。あっちの方は自信があるわよ。皆最高だって言ってくれている。林
果さんには悪いけど、私の方がお似合いだと思うわ」

「な、な、何てこと言うの! 昇さんと私とは相思相愛なのよ。あんたなんかの入り込む隙間は全然無いんです
からね!!」
 林果は激しく言い放った。
「相思相愛? うふふふふ、その壁を簡単に崩してみせますわよ。林果さん、私は昔の香澄とは違うのよ。欲し
い物は手に入れる。必ず手に入れる。
 そういう女になったのよ。貴方の子分になって、何でも言う事を聞いていた頃の私とは別人になったのよ。分
かるかしら?」
 香澄の挑発は尚も続いていたのだった。

「えーと、俺も言っておくけど、香澄さん、俺はあんたと付き合う気はない。エッチが得意らしいけど、俺には興味
が無い。今のところ相手を変える積りは無いから宜しくね」
 昇はあっけなく言って、香澄に引導を渡した積りだった。

「ふう、美味しい。ここのアイスコーヒーは美味しいわね。昇さんと一緒だからねきっと。あら? 雨が上がった
みたいね。
 じゃあ、わたしも一言、言って置くわね。林果さんは秋にはアメリカよね。向こうで博士号を取得なんて事にな
れば、七、八年位は向こうで暮らすんでしょう? 昇さんも一緒に行くのかしら? それだったら私も諦めますけ
ど、どうなのかしら?」
 香澄は痛い所を突いて来たのだった。

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