夏 休 み 未 来 教 室 


                                              春 野 夢 男

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「あああっ、そうそう! 終バスの時間だから、そろそろ失礼するよ。話の続きはまたこの次ということにして、
奢って貰って、どうも有り難う。じゃあね、林果、商品券は一応俺が貰っておく事にするよ。じゃ、また明日!」
 バスの時間の事は本当だったので、昇はうまく逃れる事が出来た。実際時間も無かったので、如何にも慌て
て『マリナー』を出て行った。

 残された林果と香澄は内心は火花が散っていたが、表面上は穏やかに話し合いを始めた。
「本当にここのアイスコーヒーは美味しいわね。アメリカ行きはまだずっと先の事よ。余り先の事ばかり考える
と、ふふふ、禿るわよ」
 林果は少し冗談を言いながら、香澄の真意を探ろうとした。

「貴方はもう忘れちゃったんでしょうね、平気で今度の様な事を頼む位だから」
 香澄のさっきまでの余裕のある顔から笑みが消えた。険しい表情になった。
「何の事? 貴方と喧嘩した事は無いと思うけど……」
 林果には本当に身に覚えが無かった。

「そりゃそうよ、貴方は女王様。私はその僕(しもべ)。喧嘩しても勝ち目が無いから、大人しく従うしかなかった
のよ」
「ちょっと待ってよ。私が無理やり嫌な事を押し付けたみたいに聞えるけど、押し付けた事は無い筈よ。宿題の
件だって、私は貴方にお願いはしたけど、無理強いした事は無いわ!」
 林果も険しい表情になって言った。

「誰が好き好んで他人の分の宿題までやるもんですか、筆跡まで似せて! お願いお願いって、二、三度言わ
れたら、断り切れないわよ、貴方のお父さんの会社で父も母も働いているのよ。
 機嫌を損ねたら、両親の首が飛ぶのよ。貴方を怒らせたら、そうなる事は専らの噂だったし、だから誰も貴方
には逆らえなかった、特に家の様に両親共の場合にはね!」

「わ、私がそんな事をする訳無いでしょう! それこそ勝手な憶測よ! 私は今まで一度だってそんな事をした
事は無いわ!」
「あははははは、じゃあ、何にも知らないんだ。一家離散してしまった吉野菊知美(よしのぎくともみ)さんの事も」
「ええっ! 知美さん? ああ、あの何かと、私に突っ掛かって来ていた、生意気な女の子のこと?」
「その事を誰か家の人に話したんじゃないの?」
「ま、まさか、……」
「ふふふふ、図星だわね。自分では愚痴を言っただけの積りでも、効果覿面(こうかてきめん)吉野菊さんの両
親共に首になったのよね」
「でもそれは違うと思うわ。吉野菊さんご夫婦は父の会社の社員じゃないわよ!」
 林果は何か思い違いしているのだと思った。

「全然分かってないのね、大口の取引先になっているのよ、貴方のお父さんの会社とのね。チェリーズグルー
プという巨大産業と取引停止されたら目も当てられないわ。
 適当な口実をつけられて首になったのよ。私はその事を両親に聞かされていたから、貴方の命令には、いい
え、貴方のお願いには従わざるを得なかったのよ。
 でも、もうその必要は無くなったわ。父も母も早めに貴方のお父さんの会社を退職して、退職金はしっかり貰っ
てしまいましたからね。
 お陰様で貴方のお父さんの会社とは殆ど関係の無い会社に、再就職して元気に働いておりますから。私は安
心して貴方にリベンジ出来ますわ、うふふふふっ!」
 香澄は不敵に笑った。

「じゃあ、昇を奪い取るのは、私に対する復讐!!」
「あははははは、そうに決まっているじゃない。私の両親が退職してからは、私はこの日が来るのを、じっと待っ
ていたのよ。いいえ、少し違うわね。貴方と貴方の周辺の事を本当は調べていたのよ。私の忠実な僕達を使っ
てね」
「な、なんですって!」
 林果は仰天して叫んだ。周囲に残っているのは数組のカップル位だったので、声が聞えてしまった様である。
二人は今日の所は終りにしようと思った。

「これ以上はあれだから、最後に一つだけ聞くわ。山健っていう人とは本当にただの友達だったの? エッチも
したって聞いたけど?」
「ふふふふ、一つだけ教えておいてあげるわね。私には彼氏は勿論、友達もいないのよ。いるのは私に忠実な
僕だけ。
 山健はそこのところが分からなかったみたいね。そういう男はパス。今日、明日中にも別れる積りだったから
丁度都合が良かったわ」
「それじゃあ、昇も貴方の僕にする積りなの? ふん、お生憎様、昇は貴方の僕にはならないわよ。パスする事
になるわよ!」
 林果は勝ち誇った。

「ふふん、それはどうかしら。私の裸身は大抵の男性を狂わせて仕舞うらしいわよ。山健みたいな鈍い男を別
とすればね。せいぜい用心する事ね。
 それじゃあ、今夜はこの辺で失礼するわ。アイスコーヒー代はちゃんと支払いますから、帰りは一人でお帰り
下さい。じゃあね!」
「お、奢って貰わなくても結構です。昇の分と二人分は支払いますから!」
 林果はかなり怒って言った。
「煩いわね! 貴方の指示は受けないのよ! ふんっ!!」
 香澄は鼻息も荒く明細票を鷲掴(わしづか)みにすると、素早く走ってレジで支払いを済ませ、外に出て行っ
た。残された林果は、敗北感を噛み締めながら、ウェートレスや店長に礼を言って、やはり外に出たのだった。

『昇が取られてしまう!! でもそんなに簡単にあの女に現(うつつ)を抜かす様になるとは思えないけど。だけど
自信満々だった。私はセックスに自信が無い、って言うか、経験が無いのよね。
 経験豊富なあの女のテクニックに昇も参ってしまうのかな。だったら私も誰かと練習した方が……、でももしそ
れが昇にばれたら、一巻の終りかも知れない。ああ、どうすれば良いんだろう……』
 帰りのタクシーの中で、林果はそんな事を考えていたのだった。

「約束を破ったわね。もう帰っても良いわ。貴方は首よ。お給料の方はちゃんと振り込んで置きますから」
 翌日出勤直後に呼び出された昇は、特別室で小姫に引導を渡されてしまった。
「ど、どうして首なんですか? 納得行きません。健全な交際がいけないんですか!」
 無駄だと思ったが、一応は食い下がってみた。

「ここのスーパーでは社員同士の恋愛などの交際はご法度なのよ。これは社則なのよ。恋愛そのものは自由
であって禁止出来ないけど、その場合には速やかに男または女が退職する事になっているわ。
 そしてその権限は上司に任されているのよ。つまり主任であるこの私に首にする権限が与えられているのよ。
勿論不服だったら、裁判所に訴えれば良いわ。受けて立つわよ。どお、やってみる?」
 小姫は一歩も引かなかった。暴力行為も恐喝まがいの示威行為もなかった。こうなる事を見越して、用意周
到だった様である。

「分かりました。短い間ですがお世話になりました。着替えてから帰ります」
「はい、ご苦労様。お客様としてここに来るんだったら、一向に差し支えありませんからね。どうぞ遠慮なくいらし
て下さい。それではさようなら」
 小姫は仕舞いには少し小ばかにしたような口調になった。昇は何も言わずに更衣室に行って着替えてから、
誰とも顔を会わせない様にして素早く帰宅したのだった。母親はアルバイトに行って留守だったので、鍵を使っ
て家に入ると、服を着たままベットの上に寝転がった。

『林果に会わせる顔が無い。今日は俺が早番。林果は普通番だったから顔を見なくて済んだ。でもどうしてこん
なに早くばれたんだ? 昨日の今日だぞ!
 そうか、『マリナー』で見られたかも知れないな、あの女のスパイに。目立ち過ぎたからな、何かと。ハプニング
続きだったしな。どっかで働くか? しかし林果のいない職場じゃな……』

 かなり落ち込んでそのまま寝入ってしまった。テストの夢は相変わらずだったが、ここのところ余り見なくなっ
ていた恐怖の夢が復活した。スーパーの中で魔物に追いかけられる夢だった。
 その魔物はどうも女らしかった。何か知らないが妙に嫌な女の臭いがした。後になって考えてみると、その魔
物は小姫に違いなかった。
 一旦は逃げ切ってスーパーの外に出た筈だったが、何故か直ぐ目の前にその小型の怪獣の様な魔物はい
たのだ。しかも口を開けると中は真っ黒で、昇の腹に喰らいつき、肉を食い千切った。
『ギャーーーーッ!!』
 激痛に大声で叫んで、目が覚めた。声は夢の中だけだった様である。

「ただいま、あら、昇、帰ってるの?」
 丁度のタイミングで母親の声。
「ああ、そのう、今日は早番だったから。一眠りしていた。ああ、風呂を入れるから」
 昇は起きて行って、母親に顔を見せてから、ボイラーの温度を上げて浴槽にお湯を入れた。

 暫くしてから風呂に入る。
『母さんに心配掛けたくないな。でも首は首だな。言わなくちゃな……』
 ここのところ母親との関係は比較的良好だった。切れてしまう事も殆ど無くなった。林果が心の支えになって
いたのだ。結局夕食後の寛いでいた時間に、首の事を話した。

「えええっ、どうしてなの?」
「アルバイトしている女の子なんだけど、桜山林果って知ってるよね?」
「ああ、あの、新聞に出ていた子でしょう? まさかその子に悪戯したとか?」
「違うよ。……付き合っていたんだ俺達」
「ええええっ! ほ、本当なの? 一方的に思い込んでいるって訳じゃないでしょうね?」
 母の水江には信じられなかった。昇はかなりムカついたが、耐えた。今までだったら既に殴っていただろう。
『母さんを殴ったら、林果に嫌われるかも知れない』
 そう思うと殴れなかった。

「ふう、近い内に林果を紹介するよ。ただ、社内恋愛は禁止なんだそうだ。それがばれて、俺が首になった。そ
れだけの事だよ。でも彼女と一緒に働けないのが辛い。だからちょっと落ち込んでいる」
「本当なんだ。でも、海外に留学するんでしょう? そうなったらどうするの? それに大会社の社長のお嬢様だ
し、身分的に全然釣り合わないわよ。苦労する事が目に見えている。止める事は出来ないの?」
「チッ! 小姫と同じ事を言う! だから相談なんかしたくなかったんだ!」
 昇は結局それっきり何も言わずに自分の部屋に閉じ篭ってしまったのだった。

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