夏 休 み 未 来 教 室 


                                              春 野 夢 男

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「お早う。しかしここは季節感が無いね。もう二月なんだけど、何かピンと来ない」
 嫌な予感は予感として、一応朝らしい挨拶だけはした。勿論、翻訳機を通してである。
「ああ、お早う御座います。そうですね、これが地上だったら、良いお天気ですね、とか生憎の雨ですねと
か言うのですけど、ここではさっぱり実感が無いですものね」
 ヘレンはそつなく会話を交わしていく。

「あれ? ミシェルは?」
 教室に入ってもミシェルは居なかった。ミシェルは遅れてきた事は無い。
「ミシェルは体調が悪いらしくて、その、女性特有の病なので、大黄河さんは見舞いとかに来ないで下さい
との事でした」
 慌ててヘレンが言った。

「ミシェルさんは病気ですか。それでは仕方がありませんね。今日はシュナイダー博士の方から重大な
話が御座いまして、計画は出来るだけ早くする様にとの事でしたので、午後はジェット戦闘機に乗って、
早速ですが無重量体験もして貰います。
 最大三十秒程度ですが、慣れないとかなり気持ちの悪いものです。個人差もあるのですが、慣れて来
ると、むしろ楽しくなります。
 特に私の様な肥満の傾向のある者にとっては、何しろ体重がゼロになるのですから最高ですよ。でも
三十秒で現実の体重に戻されるのが辛いですね。さてそれでは、今日はテキストを翻訳してくれる者が
いませんから、テキスト無しで行きましょう」
 ケッペルはその日の午前中は、専ら無重量状態の話に終始した。テキストは一切使わずに、身振り手
振りを交えて、実体験を踏まえながらの話はなかなか実感があって面白かったのである。

 午前中の授業は無重量についての楽しい話に夢中になっているうちに終了した。午後はエレベーター
で久し振りに外に出て、夕一郎とヘレンとが別々のジェット戦闘機の後部座席に座っての実地訓練だった。
 二機は編隊を組む感じで三十分ほどの空中散歩だった。その間何度か無重量体験をした。六十度ほ
どの角度で上昇する機体のエンジンを途中で切ってしまうと、そのまま、機体は自然落下の法則宜しく、
放物線を描いて一旦は上昇するが自然に落下して行く。その間の僅か三十秒ほどだが、機内は無重量
の状態になる。

 一般的には『無重力状態』と言われるのだが、実際には『無重量状態』であって、無重力状態ではない。
重力そのものは常に存在するので、無重力ということは有り得ないのである。

 個人差は相当にあるが、初めての体験だと、激しい嘔吐を感じる者もいる。夕一郎の場合にはそもそ
も胃袋も無いので、嘔吐を感じても、何も出る事は無いのだが、脳は嘔吐を感じた。
「はははは、こりゃ参った。脳は吐き出すようにと命令しているんだけど、その作業が空回りしている。何
しろ胃袋も無いし、唾さえも出ないんですからね。偽物の唾液は出ますけどね」
 しきりにパイロットに話し掛けたが、パイロットは何故か不機嫌らしく、返事は殆どして貰えなかったの
だった。

 一方のヘレンは嘔吐袋を用意した甲斐があった。かなりの量の嘔吐があった。この様な場合を考えて、
昼食は取っていなかったのだが、吐き出せる物は全て吐き出してしまったのだった。
 二人とも散々な目にあって、初無重量体験は終了した。宇宙に行った場合には、必ず無重量状態を、
しかも長期に渡って体験するので、慣れておく事は絶対に必要な事だった。

 地上に降り立って一休みしてから再び『教室』に戻ると、ケッペルが笑いながら出迎えた。
「はははは、なかなか大変だったようですね。しかし慣れなければなりません。もしどうしても駄目だった
ら、宇宙行きは断念するしかありません。
 ですが、大抵は四、五回もやれば慣れて来て、楽しくなって来るものなんですよ。まあ、当分の間、毎日
一回はこれが日課になりますから、来週位にはすっかり慣れていると思いますよ。
 それで二週間後位からは、いよいよ『ケッペル・スター』での実地訓練になりますからね。本格的に宇宙
体験をする事になりますから。
 本来はもっとペースがゆっくりだったのですが、責任感の無いアマチュアの天文家達が騒ぎ出しまして
ね。最悪のシナリオをさも本当であるかのように言う。
 小惑星『ニューアメリカン』が地球に激突する確率がかなり高いとね。しかもアマチュアと言ってもかなり
の著名人ばかりでしてね。困ったもんだ」
 仕舞には相当苦々しい感じで言った。

「あの、授業の方は?」
 夕一郎は催促した。
「ああ、失礼。翻訳者が不在でテキストが使い難いので、二時間ほど質疑応答の時間と致しましょう。何
か質問が御座いますか?」
 ケッペルは総括的な復習の意味で言った。

「あのう、今日来なかった、ミシェルさんや桜山さんはどうなるのでしょうか?」
 夕一郎は本当は林果の事を特に聞きたかったのだが、それだけ聞いたのではミシェルが気の毒に思
えたので、一応は聞いてみたのだった。

「はははは、その為に、ジェット機の無重量の訓練に二週間ほど期間を設けてあるのです。勿論全員に
やって頂きますよ。
 今日は生徒が二人だったのでジェット機は二機でしたが、三人なら三機、四人なら四機になります。
ジェット機の手配の事でしたら心配には及びません。
 我がアメリカ空軍が責任を持って手配致しますから。ああ、そうそう、言い忘れていましたが、今日もそ
うなのですが、全ては極秘です。
 地上に出た時、万一マスコミ関係者に質問される様な事が御座いましても、一切『ノーコメント!』と言っ
て話さないで下さい。一言も言ってはいけません。宜しいですね?」
 もう分かり切った事だったが、ケッペルは念を押した。

「はい、それは勿論です」
 夕一郎は元気良く答えたが、
「……、イ、イエス」
 ヘレンは元気無くぼそぼそとそれだけ言った。無重量状態の嘔吐がまだ完全には収まっていなかった
ようである。

「ああ、大丈夫ですか、ヘレン? 余り大丈夫ではなさそうですね。ええと、今日の授業はここまでにしま
しょう。自室に戻ってゆっくり休養されるといい。大黄河君、ヘレンを自室に送って行ってくれませんか?」
「はい、勿論そうします」
「す、済みません。お願いします」
 夕一郎は肩を貸して、ヘレンの自室まで送って行った。

「あ、あの、少しお話していって、頂けませんか? なんと言うか、ちょっと心細いんです」
 初めてやって来たヘレンの部屋は実に小奇麗だった。掃除が良く行き届いていて部屋中がピカピカの
感じだし、窓には薄いピンク色のカーテンが着けてあった。
 更に幾つかの花瓶には生花が生けてあった。清潔で女性らしく、しかも花の香りの漂う素敵な部屋だっ
たのである。

『うーん、少し出来過ぎている様な気もするけどね。まあ、悪い気はしないけど。でもヘレンの今までの言
動からすると、どうも余り信用出来ないんだよね。それに何と無くミシェルの事が気に掛るし……』
 そうは思ったが、嘔吐で苦しそうにしている女性を見捨てる訳にもいかなくて、イスに座って少しばかり
話をして行く事にした。

「一つ聞くけど、生け花の心得があるのかな? 何か日本の流派の様な気がするけど?」
「はい、大原流を少々。余り上手じゃなくて恥ずかしいんですけど。日本の生け花を学んだのに、日本語
が出来なくて済みません。
 先生が英語が堪能でしたので、それ以上日本語とかは勉強しなかったものですから。あのう、大黄河さ
んは生け花の方は?」
「うーん、まあ、知り合いの女性が少々ね。余り詳しい事は知らないんだけど、大原流は近代的なセンス
で花を生けるんだよね? 古沼流は伝統的なセンスで花を生けるという事くらいは知っているけどね」
 本当は母親が一時、熱心にやっていたと言いたかったのだが、母親がいない事になっているので、言う
訳にはいかなかった。

「わあ、結構詳しいんですね。うふふふ、ああ、大分楽になって来ましたわ。あの、せめてコーヒーだけで
も飲んで行って下さらないかしら?」
「そうですね、じゃあ、コーヒー一杯だけ」
 ヘレンはややおぼつか無い足取りでサイドボードの方へ歩いて行って、コーヒーカップとスプーン、イン
スタントコーヒーのビンなどをお盆に入れて持って来た。テーブルの上に置いてある電気ポットからお湯を
注いで夕一郎に渡した。

「それじゃあ、頂きます。ふうん、いい香ですね。……それで一つ疑問なのですが、ここにあるお花は何処
で調達されました? 地下にはお店は、まあ、コンビニみたいな売店はありますけど、生花は売ってない
でしょう?」
 ごく常識的なことを聞いてみた。

「はい、良くぞ聞いて下さいました。ご想像の通り結構大変なんです。先ず地上のお花屋さんに直接は
絶対に連絡がつきません。そこでアメリカ空軍の知り合いの人に頼んで、買って貰うんです。
 それからここに送って貰うんですよ。勿論チップを弾んでね。時間が掛るので、枯らさない様にするの
が大変なんです。たまに枯れたのが届いたりするんですけど、クレームはつけません。本来の仕事以外
の事をして貰っているのですからね」
「へえー、それじゃあ、ここに飾られているお花達は結構貴重なんですね。そう思うと何だかいとおしさを
感じますね」
 夕一郎は楽しげに花達を眺めていた。

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