夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
209
「ふう、美味しい。あれ、でもさっきと何か香が違う気がするな。えっ! 何だか眠くなって来たぞ。あれ、
ひょっとして……」
夕一郎は一口飲んだだけで眠ってしまった。
「ふう、上手く行ったわね。香が分かると言う事は、鼻の感覚器官が直接脳に繋がっていると考えたゴール
ドマン教授の考え方は正しかったみたいだわ。御免なさいね。ああん、いとしい大黄河様!」
すっかり眠っている夕一郎に抱き付いてしばし顔中にキスをしてからヘレンは仲間に連絡した。暫くして
数人の男達が、研究員らしく白衣を着て現れた。
「大切に扱って頂戴ね。きっと教授も喜んでくれると思うわ」
「ああ、それにしても、ミシェルは余分だったけどな。教授は目を白黒させて驚いていたぞ」
「もう、あんただって、私の気持は分かっているでしょう?」
「ああ、良く分かっているよ。男に夢中になると前後の見境がなくなることをね」
「ふふふふ、それを言わないでよ。インスタントコーヒーのトリックは私が考えたんだし。ビンの中に仕切
りがあって、睡眠薬入りと普通のと区別してあるとは、さすがの大黄河さんやミシェルも気が付かなかっ
たわね。
一途な女の必死の思いがこういうトリックを思いつかせたんですからね。私の男狂いもそれなりに役に
立っているのよ」
ちょっと言い訳した。
「けっ、良いよな、お前に思われる男は。俺なんか手も握らせて貰えない」
男はヘレンと長い付き合いらしかった。しかし恋愛感情はとうとう持たれなかった様である。
「そ、それは前にも言ったでしょう。あなたは私の兄妹みたいな感じだから、その気にならないのよね。
仕方が無いでしょう? それが持って生まれた定めなのよ」
ヘレンは引導を渡す感じで言った。男は何も言わなかった。もう諦めているようである。
「さて支度は出来たぞ。一緒に来るんだよな?」
「勿論よ。今抜け出さなきゃ、もう抜け出せなくなるわ。明日の朝は大騒ぎになる筈だからね」
「そりゃそうだ。一番の主役が消えてしまうんだからな。さて、さっさと行くぞ。ゴールドマン教授がお待ち
かねだろうからな」
「でも大統領を敵に回しても大丈夫なのかしら? 私達結局負け組なんじゃないの?」
部屋を出て歩きながらヘレンは言った。男の方はかなり大型の手押し車に夕一郎の入った、お花運搬
用の頑丈そうなボックスを載せて、押して歩いていた。
他に二人研究員風の本当はガードマンを兼ねている男達が付き添っている。ヘレンも研究者風に白衣
を着て、さも研究室に向かう感じで歩いて行った。
「それにしても警備が甘いように感じるな。こんなことで大丈夫なのかね。地球を守るどころか、我が身さ
え守れるかどうかね。最も俺は地球の最後なんて信じちゃいないけどね。
ゴールドマン教授の言う様に、もし、地球上に大災害をもたらす小惑星があったとすれば、遥か大昔に
事が起きている。今頃急にその様な事が起る筈が無い。
それが正しい様に俺には思える。シュナイダー博士は嘘を言っているか、さも無ければ、やたら心配性
なんだろうよ」
男はエレベーターに乗り込みながらそう言った。
「そうねえ、博士の取越し苦労であって欲しいわね。ただ私は地球に最後が来て、もし死ぬとしたら大黄河
さんと一緒に死にたいわ。それだったら本望だわ」
「ああ、ああ、何処までのろけるんだか。しかし、眠りから覚めたら、大黄河さん、何と言うでしょうかね。だ
まし討ちみたいでちょっと拙くないか?」
男は夕一郎の心情を考えて言った。
「うふふふ、大丈夫よ。私が彼の心を解きほぐしてあげるから。大黄河さんは桜山さんに夢中なのよね。
同じ日本人同士で気が合ったんでしょうね。何と無く分かる気がする。
だから近い内に桜山さんにも教授の所に来て貰うのよ。お子さんの、昇一君とか言ったわね、彼を何と
かすれば容易い事だわ」
「少しやり過ぎなんじゃないのか? 特に子供を使うのは重大犯罪になるぞ。やばくないか?」
「ふふふふ、貴方も心配性ね。犯罪にならないように上手くやれば良いのよ。まあ、私に任せておきなさ
い。万に一つも犯罪にならない様にしてみせますから」
ヘレンは自信満々で言い切ったのだった。
「さて、地上に着いたぞ。キーを付けた車がどこかにある筈だが?」
地下を出る時には全員白衣姿だったが、エレベーターの中で白衣を脱いで、バックに仕舞い、白衣の
下に着ていたお花屋さんの衣装になっていた。
「あれね、あの、ワゴン車よ。全体にお花が描かれているから間違いないわね」
「ああ、確かにあれだ。ミシェルの時の車と同じだ。へへへ、地下ならいざ知らず、地上に出ればゴール
ドマン教授の肩書きがものを言う。
まあ、もっともこんな夜にお花を運ぶのはかなり変だけどね。しかし海外からの客人をもてなす為とか
何とか言えばそれで通るからね」
夕一郎の入った箱を丁寧に車の後ろに入れて、全員座席に座った。全員がゴールドマン教授の許可
証を持っている。
空軍基地内では教授の名前は絶対だった。基地から外に出る時も、許可証が本物である事が分かる
と、恭しく頭を下げられて、難なく基地の外に出ることが出来たのだった。
「うふふふ、全然疑われなかったわね。ゴールドマン教授様々だわ。さて深夜のドライブになるけど運転
の方宜しく頼むわよ」
「ああ、ボックスは一応固定してあるけど、万一の事があるからゆっくり走って行くよ。ただ途中で目を覚
まさなけりゃ良いけどね」
男はちょっと心配げに言った。
「うーん、厳重に手かせ足かせを掛けてあるけど、彼のパワーを百パーセント抑え切れるかどうか。でも、
三時間は眠っている筈よ。そうねえ、余り揺れない程度にだけど、出来るだけ早く走ってね」
「あ、ああ、難しい注文だけどやってみるよ」
「じゃあ、お願いね」
本当は助手席の彼女が眠ってはいけないのだが、何かと疲れが出て、結局十分ほどで眠りに落ちてし
まったのである。
車は二時間余り西へ向かって走った。相当辺鄙(へんぴ)な山中で夕一郎は目を覚ましたのだった。
『えっ! 真っ暗だぞ! 何か変だぞ? 特製の手錠が掛けてある。あれ、足かせまで付いている。
……俺はどうしてこんな所にいるんだ?』
何が起こったのか理解するまでにかなり時間が掛った。徐々に思い出して来る。
『分かったぞ、インスタントコーヒーに見せかけた睡眠薬だ。とすると、犯人はヘレンだな。それにしても
不覚だったな。
まさか、このような方法でくるとは思わなかったからな。ええい、しかし俺をどうする積り何だ? そうか、
ゴールドマン教授か? しかし、これはれっきとした、犯罪なんじゃないか?』
夕一郎は今何をなすべきか必死になって考えていた。
『脱出するべきかどうかだけど、相手の正体を見極めるという考え方もある。うーん、そうだな。それにし
ようか。ここまで殺さないという事は、俺を殺すのが目的では無さそうだからな。
ヘレンはゴールドマン教授の話をしていたよな。やはりシュナイダー博士の言う事は信じられなかった
んだろうか?』
結局大人しく付いて行く事にした。
車は山中のちょっとした集落に向かって行った。何件かの白亜の研究所らしい建物があったが、そこ
の駐車場に車は止められた。
夕一郎は再び箱ごと押し車に乗せられて建物の中に入って行った。まだ日の出前だったが、もうすっ
かり明るかった。
「教授、例のものをお持ちしました」
「はははは、やったか! 宜しい、姿を見せてくれ。いや、随分苦労させられたよ。しかしこれでシュナイ
ダー博士は手足をもがれたも同然だ。さあ、兎に角見せてくれ」
夕一郎には聞き覚えのある声だった。
『やはりそうか、確かにゴールドマン教授の声だ。それにしてもここは何処なんだ? 坂道を登ったらしい
から、山の中みたいだけどな』
そう思っていると、
「ガチャッ! ガチャガチャ!」
キーを解除しているらしい音がして、
「ギーッ!」
ボックスの上の蓋が開いた。
「お、お早う御座います、大黄河さん。手荒な真似をして御免なさい。眠り薬を使ってここまで来て貰いま
した。教授の研究所ですわ」
「ふあーあっ、狭かったぞかなり。しかしここまで来ると紛れも無い犯罪だぞ。ヘレン、分かっているのか!」
ボックスから出て欠伸をした後、夕一郎は声を荒げて言った。
「まあまあ、お久し振りですな。大黄河君。君だって偉そうなことは言えませんぞ、私の目の前から姿を消
したのですからね。あれだって立派な犯罪なんですよ。差し引きゼロという事でどうですか?」
「ふうん、ゴールドマン教授でしたか。それだったら一つ手錠と足かせを外して貰えませんか。それで何と
か五分になる」
「ああ、分かった。ただ逃亡しないと誓ってくれるんだったら、直ぐにでも外しますよ。どうです誓えますか?」
「それだったらこっちにも一つ条件がある。乱暴な事はしないと、今後は眠り薬など使わないと約束して
貰えませんか? それがこっちの条件だ。どうですか、守れますか? それが守れれば逃亡はしませんよ」
夕一郎は教授の反応を待った。
「ふうむ、まあ、良いでしょう。交渉成立ですね。じゃあ、ヘレン、手錠と足かせを外してあげなさい」
あっさりと認めたのだった。