夏 休 み 未 来 教 室 


                                              春 野 夢 男

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 仏像の写真集を本棚に仕舞うと、
『林果はどうしているのかな?』
 パソコンのチャットが途切れて以来、何の連絡も取り合っていない林果の事が急に気に掛って来た。

『迂闊に連絡すると、またあの小姫がしゃしゃり出て来そうだからな。こっちから連絡を入れるのは危ない。しか
しなあ……』
 昇は電話等で連絡する事を躊躇っていたが、段々我慢しているのが辛くなって来たのである。
『畜生、いっその事林果と関係を持ってしまおうか? 妊娠させて出来ちゃった婚とかやるか? いや、今は拙い。
最悪でも、彼女がアメリカの大学に合格してからにしよう。あああ、林果に会いたい!』

 一瞬林果と一緒に暴走したい衝動に駆られたが、グッと堪えた。
『駄目だ、二人一緒に幸福になる道を選ぶ以外の選択肢は無い!!』
 そう強く心の中で誓いを立てたのである。そしてその様なけじめのある性格が、多くの女性に好かれる理由の
一つである事に、彼自身は気が付いていなかった。

 一度小用を足してから、もう一度静かな一般向けの図書室に戻って、理論の探求を始めた。時々腕組みをし
てみたり、左肘をデスクの上について、額に手の平を当ててみたり、体を後ろにそらしてみたりしながら、懸命
に考え続けたのだった。

『……『存在定数(そんざいていすう)』、この間つい林果に言ってしまったよな。彼女は沈黙してしまった。そりゃ
そうだろう、宝本先生を除けば世界の誰も知らない言葉なんだから。しかし間違いない考え方なのか? よし、
もう一度考え直してみよう。
 先ず、自分自身の作り方だ。自分で自分を作る事は不可能な事であって、例え神と言えどもどうしようもない
事は疑う余地が無い。それは一般的にも同じ事が言える。
 世界の何処にも、Aさんがいないのに、どうやってAさんを作り出す? 存在していないのだから作りようが無
い。一部の人達の中には、肉体と魂や精神とは別物だという人が居る。
 仮にそうだったとしても、Aさんの魂やら精神が無い事にはどうしようもない。Aさんの魂の欠片すらないのに
Aさんが実体化する事など、絶対に有り得ないのだ。……うんうん』
 昇は独りで二、三度頷いた。 

『それでは、そのAさんが仮に俺だとすれば? いや、そうじゃない。Aさんは存在しないのだからそういう設定
自体出来ない。つまり存在しないものの設定には誰も該当しないのだ。
 これは何を意味しているのか? 簡単なことだ、今世界に存在する人は元々から存在しない限り、誰である
のか設定する事が出来ないのだ。
 更に言えば、それらは消滅もしない。もし誰か一人、仮にBさんの自分自身が消滅したとすれば、消滅したそ
の瞬間に特定不可能になる。
 つまりBさんであったと特定する事が出来ないのだ。何しろ世界の何処にも、Bさんが存在しないのだから。と
ころがこれは消滅したのが、Bさんであるという事実、その事実に反する。うーむ、ここはかなり分かり難いか
な?』
 昇はこの部分の説明は、近い将来講義等をする場合には、相当骨が折れそうだと思った。しかし委細構わ
ず尚続きを考えて行った。

『背理法的な証明だけど、何故その様な矛盾が生じるかと言えば、仮定が間違っているからである。つまりBさ
んは消滅しない。
 Bさんは一般的に誰であっても成立するから、如何なるものであっても、自分自身は消滅する事はない! ふ
う、喉が渇いたな、おっと、ここは飲食禁止だった』

 じっくり考えているうちに喉の渇きを覚えて、隣接するサロンに行った。そこはちょっとしたレストラン位の広さ
があり、テーブルとイスが適当な間隔で置いてある。
 軽めのBGMが流れているが調理の施設等は全く無く、その代わりに種々の自動販売機が十台位も置いてあ
る。ジュース類や、ハンバーガー、カップ麺、アイスクリーム、弁当や丼類、スパゲッティ等も売られていた。
 タバコの自販機は無い。そう言えば、図書館内は全館禁煙だった。タバコは他の階の喫煙室でのみ吸う事が
出来る。愛煙家には厳しい状況だが、それもご時世だろう。

『えっと、疲れた時には、頭脳労働した時には、甘い物が良いな。カフェオレにしよう。だけどよく考えてみたら、
あのてんこ盛りのアイス入りのあん蜜、惜しいことをしたよな。しょうがない、ソフトクリームで我慢しておこう』
 昇はカフェオレの他にソフトクリームも買って、食いそびれた憂さを晴らす事にしたのだった。サロンのテーブ
ルに一人座って飲み食いしながら、更に考え続ける。    

『逆もまた真なり。増える事も無い。仮にたった一人存在しない筈のAさんが生まれたとしよう。そのAさんに一
体誰がなるのか? 世界の何処にもAさんがいないのだから誰もなりようが無い。
 つまり存在は常に正確に一定の数であって、ただ一個の増加も無ければ減少も無い。つまり少なくとも自存
在は極めて正確にその定数が決まっている。それを『存在定数』と言う。……うん、うん、一応完璧だ。ただ問
題は幾つもある。
 多分宝本先生は究極的には、全ての物質にそれが当てはまると考えたのだろう。しかし信用して貰えるか
な? それと、そうなって来ると物理学なんかとの関連性、整合性が問題になって来る。
 相対性理論、量子力学なんかと矛盾無く一致しなければならない。ふうむ、その方面の専門家じゃないから
な、こりゃ、難しいぞ』
 昇がしきりに頭を捻りながら考えていると、見覚えのあるミニスカート姿の若い女性がサロンに入って来た。

「あ、あの、ううう、す、済みません。何度もご迷惑をお掛けして。ううううっ、……」
 私服に着替えた鏡川キラ星だった。恐らく店長から昇の居場所を聞いてやって来たのだろう。涙を零して謝り
続けた。
「いや、あんたが悪い訳じゃないから。別に怒ってないからさ」
 昇はやっぱり苦手だと感じた。
『めそめそと泣かれるのが一番困るんだよな。まるで俺が泣かせているみたいじゃないか』
 キラ星を責める訳にも行かないが、既に周囲に居る何人かのサロンの客達は、昇を非難の目で見ているのだ。

「兎に角、座ってくれないかな。それとその、泣かないで、出来れば笑って欲しいんだけど。俺は全然怒ってない
からさ。悪いのは何とか吉野とか言う奴だよ」
 昇は懸命になだめた。
「菱目川吉野さんです、うううっ……」
「そうそう、それ。首になったんだって? まあ当然だけどね。あそこまで言われたら誰だって怒ると思うよ。ただ
あの、てんこ盛りのアイス入りあん蜜を食い損ねたのは、ちょっと惜しかったな。素直に食って置きゃ良かった
なって、今頃になって言っても、もう遅いよね?」
「ええっ! 食べたかったんですか?」
 キラ星は涙に濡れた顔のまま、真顔になって昇に聞いた。

「うん、だからものは言い様でね、これ、キラちゃんからのサービスで〜す、とか言えば、俺だって素直に食った
んだけどねえ。言うに事欠いて、彼女に振られたなんて言われたら、カッとなるよね。
 ああ、そうだ、近い内に、もう一遍『マリナー』に行くからさ、てんこ盛りのあん蜜、アイス入りをサービスしてくれ
ないか? 勿論、キラちゃんの奢りという事で」
「ええっ! 食べてくれるんですか? や、やった! う、嬉しいです、うふふふ」
 キラ星の笑顔を見て昇はほっとした。心なしか周囲の目も和(やわ)らいだ感じがした。

 キラ星は持って来た小さなバックからハンカチを取り出して自分で涙を拭いた。幸いにも大して化粧をしてい
ないので、メークが落ちて大変、等という事にはならなかったが、
「ああ、ちょっと貸して」
 昇はハンカチを借りて、拭き切れなかった涙の後を拭いてやった。周囲の目に配慮しての事でもある。
「あ、有難う御座います。う、嬉しいです……」
「いや、その、別に、……」
 昇はちょっと照れ臭かったが、それで一件落着帰ってくれると思った。が、キラ星は帰らなかった。 

「あのう、仏像に興味がおありなんですか?」
 キラ星は突然話題を変えて来たのである。
「ああ、店長さんに聞いたんだ?」
「ええ、熱心に仏像の写真集を見ていたって聞きました」
「うーん、少し違うんだけど、懐かしかったんだよ。今は紛失してしまって無いんだけど、昔中学の頃に同じ写真
集を持っていたものだからね」
「へーえっ、中学の時? ちょっと凄いです。私も写真集を持っていましたけど、お、男の人のアイドル写真集でし
た。えへへへ、私って平凡ですね。それに比べたら貴方は……、えっと、あのう、お名前を聞いても宜しいでしょ
うか?」
 キラ星は随分慎重に言った。名前を聞いただけで嫌われてしまうかも知れない、と思っている様である。

「ああ、俺は林谷昇。梅ノ木団地に住んでいるんだよ。鏡川さんは?」
「私は蛍ヶ丘です」
「ああ、直ぐ隣の街じゃないか、意外に近いんだね」
「そうですわねえ。あの、梅ノ木団地のどの辺ですか?」
「フラワーグループのスーパー、フラワー梅ノ木店の本当に直ぐ近く何ですよ。バス停も側にある」
「わあっ! じゃあ、家からも凄く近いです。そこのバス停からここに通って来ているんですから。あの、スーパー
の通りに面しているんですか?」
「うん、スーパーから同じ道に面した北東側へ四、五件隣が家なんだよ。古い家だけど一応表札も出ているから、
簡単に分かると思うけどね」
 昇は言ってから後悔した。
『つい調子に乗って言っちゃったけど、大丈夫かなこの人?』
 涙もろい割には大胆なミニスカートを穿いている事に、危険性を感じていたのである。

『控えめな態度の割には、スカートが短過ぎる。胸の谷間も良く見えるし、座れと言われて、くっ付きそうな位側
に座っている。何か妙だぞ? 控えめなのは表面づらだけで、本当は相当過激なんじゃないのかな? 家に押
し掛けて来る事は無いよな?』
 何とも嫌な予感がした。

「ああ、じゃあ大体分かりました。それでね、家はスーパーの南西、五十メートル位の所からちょっと入った所に
ある、やっぱり自宅なんです。
 高校の裏門の向かいの所から入るんですけど、家にも表札がありますから直ぐ分かりますわよ。あああ、嬉し
いわ。歩いて五分もかから無い所にあったんですね。こんなに近いのに全然分からなかったですわ」
「そうだな。近くと言っても、地区が違うから殆ど交流が無いんだよね。直ぐ側を歩いていたのに、全然気がつか
なかったですよ。こんなに綺麗な人なのにね」
「えっ、わ、私が、綺麗なんですか?」
「あ、ああ、まあその、とっても綺麗ですよ。素晴しいです……」
 昇は自分の正直な性格を呪いたくなった。確かに鏡川キラ星は改まって直ぐ側で見ると、色白の大変な美人
である事に気が付く。しかも昇にその美貌を指摘された事によって、両の瞳には妖しい輝きが生じていたので
あった。

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