夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
29
「ねえ、その鏡川って、女子(こ)が彼女?」
店長が居なくなるのを見計って、隣のレジ担当のメグミが聞いて来た。
「いや、違います。ただ、単なる知り合いなんですよ。ご近所の人なので多少親しいんですけど」
昇はちょっと苦し紛れな感じで言った。
「へへえ、単なる知り合いね。怪しいわね、ふふ……」
朝の品揃えの最中なので、かなり忙しいのだが、それでもわざわざ側まで来て、総合食品部門の小池多美が、
一言そう言って、笑って去って行った。
「お早う御座います、午前十時、開店です」
店内放送のアナウンスがあり、メグミが店舗の前の方の扉の鍵を開け、もう一人のチェッカーの大沢木雪美
(おおさわきゆきみ)という、ここのチェッカーの中では一番若い、二十二才の女子アルバイターが後部の入り
口の鍵を開けた。彼女は若いけれども、高校卒業後直ぐここに入ったので、結構キャリアはあるのである。
大きなスーパーだと、入り口に従業員が何人か立って、数分間ほど早く来たお客達に挨拶したりするのだが、
ここではその様な事は一切無い。普通に客を出迎えるだけだった。
「いらっしゃいませ、ポイントカードはお持ちでしょうか? はい、有難う御座います。ティッシュボックス198円、
バナナ253円、カップ麺98円……」
男子のチェッカーに並ぶ客は少ない。昇は最初のうちは随分暇であった。しかし昇の素質なのだろうか、段々
客がむしろ他のチェッカーのレジより多い位になった。
昇が主婦達に人気があったのは、一つには今時珍しく茶髪でなかった事と、ピアスや指輪等一切していなかっ
たことである。しかし本当は皮膚が弱くて、髪を染めたりピアスなどしたりすれば、皮膚がただれてしまう恐れが
あったからだったのだが、それが幸いした。
それに身長が男子としては低い事と体格も僅かに小太りなだけで威圧感が無い為であろう。顔立ちは普通だ
が常に微笑んでいる事。これは昇が意識的にやっていることで、アルカイック・スマイルという古い仏像等に見ら
れる、微かな笑いを模倣していたのだ。
『人に不快感や恐怖心を与えない様にしないとね。だけど笑い過ぎちゃあかえって変だし、普通にしていると無
表情な感じで取っ付き難い。アルカイック・スマイル風に行こう!』
そう考えて微笑みを忘れなかったのである。勿論顔だけ笑った形にするのではない。
『前に飛行機に乗ったことがあったけど、女性の客室乗務員が鏡を見て、笑顔を作っている所を偶然見かけた
事があったよな。
あの時はビックリしたよな。笑った形だけを作っていて、気持が全然入っていなかったから、まるでお面を被っ
ているみたいだった。
何とも言えない、不気味な笑顔だったから、ぞっとした事を覚えている。考えようによっちゃあ物凄く器用だと
思うけどね……』
昇はその時のショックから、笑う時には必ず本心で笑う事にしていた。その気持がお客に伝わって行ったよう
である。
その他にはコンビニでバイトをしていた事もあって、レジの扱いに慣れている事や、面接の時に言われたのだ
が、男子としては手が綺麗であった事も隠れた理由の一つかも知れない。
ごつい手はそれだけで女性には恐怖心を与える。まして空手家やボクサーの様に拳ダコなどがあったりした
ら、お客が寄り付かなくなる恐れがある。
三時間ほどして昼食休憩の時間になった。年配の女性チェッカーのアルバイトの人と交替である。一時間休
憩してまた三時間チェッカーの仕事である。
ただ三時間びっしりでは大変なので、途中で、お客の少ない時には交替で小休止が取れる様なシステムに
なっている。混んでいる時には、この小休止は取れない場合もある。
「ねえ、聞いても良いかな?」
「はい、良いですけど……」
昼食休憩時間の重なった、小池多美が昇に興味津々の顔で聞いた。
「どうして茶髪にしないの? 別に悪いと言っている訳じゃないのよ。今時だと超珍しいからさ。この私だってやっ
ているんだから」
「ははは、皮膚が弱くて駄目なんですよ。髪を染める時、染料とかが頭皮に付くと思うけど、それで皮膚がどうな
るのか怖くて出来ないんですよ。
ピアスや指輪も駄目だし、膏薬を貼ったりするのも長時間だとかぶれてしまう。それは本当なんだけど、別に
興味も無いですから丁度良かったんですよ」
昇はいたって正直に言った。いや、ちょっぴり嘘がある。茶髪に出来たり、ピアスなんか出来たりする事が、
多少は羨ましかった。しかしそうは言いたくなかった。
「へえ、そうなんだ。タバコも吸わないのよね?」
「はい。結構大きな病気をした事があるので、タバコは厳禁だと医者に言われましたから。もっともちょっとだけ
吸った事があったんですけど、楽しくないので止めました」
「じゃあ、お酒だけが楽しみなんだ。後他に趣味は無いの? 音楽を聴くとか、歌を歌うとか……」
「はい、音楽は好きですよ」
「ロックとか?」
「いや、曲によるんだけど、演歌も聴くし、クラシックも聴くし、ポップスも結構聴きますよ。俺はジャンル分けより、
曲第一主義で、良いと思うものはジャンルに関わり無く、ロックだって聴きますよ、良いと思えばね」
「ふうん、何て言うか、徹底しているのね。ああ、そうか、一本筋が通っているって言うか、それで綺麗なんだ。
……ああ、いいえ、何でもない」
多美は顔を赤らめて俯いた。
『俺が綺麗? 前にも誰かに言われたよな確か?』
昇は思い掛けない言葉を二度聞いた事によって、
『俺って綺麗なのか?』
と自問したが、
『まあ、比較すれば、とか言う事だろうな、多分。ここのスーパーの中だったらとかね』
そう結論付けて、
「あの、済みません、ちょっと一眠りしますから」
と多美に断ってから、テーブルに突っ伏して本当に寝てしまったのだった。昇は忘れていたが、やっぱり、『の
ぼっ太君』に似ている様である。少なくとも、素早い昼寝に関しては。
昇は自発的に休憩時間十分ほど前に目を覚まし、小用を足してから、レジ打ちの仕事に戻る積りだったが、
事務室の前を通ると、叫び声が聞こえて来た。男の罵る様な声だった。
「バタンッ!!」
ドアが乱暴に開けられ、中から岩城山悟が飛び出て来た。危うくぶつかりそうになったが、辛うじてかわした。
「ペッ!!」
ムカついた感じで廊下に唾を吐き捨てると、小走りに走り去った。
「ブウウーーーーンッ!! キキキキキーーーーッ!!」
直後に車を急発進する音が聞こえた。どうやら悟が怒りに任せて車をぶっ飛ばして行ったらしい。
「あのう、どうかしたんですか?」
昇は少し声を潜めて、事務室の中にいた、店長にではなく、初めて出会った副店長の長崎花連現(ながさき
ばなれんげん)という、変わった名前の初老の男性に聞いた。彼に聞いたのは、単に近くに居たからだった。
「ああ、彼は首だ。素行が悪くてね。遅刻、早退、無断欠勤。口は悪いし、注意しても言う事を聞かないし。髪の
毛もど派手に染めて来るし、指輪、ピアスも極端に多いし、仕事それ自体も雑だ。丁度君と正反対なんだよね。
店長さんから聞いたんだけど、君はそこの北岩高校の出身者なんだって?」
副店長は良く喋るタイプらしい。
「はい、中退ですけど」
「はははは、言葉は悪いかも知れないけど、腐っても鯛、腐っても北岩高校出身者ですよ。相対的にみて断然
優秀ですよ。何も中退した事を引け目に感じる事は無い。まあ、私も同じ北岩高校の出身なんだけどね……」
連現の話は長く続きそうだったので、
「済みません、そろそろ仕事なので……」
と、逃れた。本当は尿意がかなり厳しいところまで来ていたのだった。
「ふう、おっと時間だ!」
トイレで一息吐いたが、時間が無いのでかなり慌ててレジに行った。今度は別の場所のレジである。そのレジ
の順序は予めきちんと一週間前から決まっている。
多少のゆとりを持たせているが緊急に二人位に休まれると、かなり大変である。その様な場合は店長や副店
長が応援する事になる。
小さなスーパーではあるが、チラシを回した日等は相当に混雑して、チェッカー達はトイレに行く暇も無いほど
忙しくなり、それはそれでかなり厳しい仕事となる。
午後五時、昇の仕事は終った。今日は平日だから良かったが、明日の土曜日は戦争だと、先輩のチェッカー
達には脅かされていたのだった。
「お先します!」
まだ二日目だったが、何と無く慣れた調子で昇は皆に挨拶して、帰宅しようとした。
「あの、ちょっと良いかしら? お話があるんですけど……」
スーパーの裏口から出た所で、待っていたのは鏡川キラ星だった。昇の嫌な予感が当った。
『帰宅してから、林果に会いに行く積りなのにな。邪魔なんだよな。魅力的なボディーはちょっと惜しいけどね』
昇は仕方無しに、林果とキラ星とを天秤に掛けてみた。考えるまでも無く林果の方が遥かに重い。しかし、昇
の体は、彼の意志とは異なる行動に出た。
「えっと、用事があるからなるべく早く頼むよ」
自分の言葉に昇はちょっと呆れた。
『用事があるから、明日にしてくれないか? じゃ無かったのか?』
しかし言ってしまった以上仕方が無い。
「あのう、五分で良いんです。私の家に来て欲しいんですけど。本当にちょっとだけで良いんですけど!」
キラ星は切迫した言い方だったが、話の内容は言わなかった。
『話なんか本当は無いんじゃないか?』
そう疑いながら、
「じゃあ、五分だけですよ。一秒も延長は出来ませんからね。今夜は父が帰って来る日なんでね」
昇は何故か言い訳めいた話し方をしたのだった。