夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
31
四十分ほどの間に二度、昇は絶頂に達した。キラ星は何度も何度も果てただろう。お気に入りの男と、情を
交わせたのだから言う事は無い。ちゃんと避妊具を使ったので妊娠の方は大丈夫ではあろうが、問題なのは、
終った後だった。
「と、泊まって行けば良いのに……」
キラ星はそれが無謀な事だと知っていたが、そう言わずに居られなかった。いとおしい男が帰ってしまう事は、
身を切られる様な思いがするのだった。
「そういう訳には行かないよ。五分の積りが一時間も居たんだからね。そうそう、肝心な事を聞いていなかった。
ノートの処分は誰が言ったのかな?」
昇はちょっと気が引けた。
『何だかセックスを餌にして聞き出すみたいで、余り良い気持ちじゃないな』
そう感じたが、聞かない訳には行かなかった。
「言います。直接言ったのは吉野川英次朗先生でした。宝本賢三さんのお話を聞きに行ったと仰(おっしゃ)っ
ていました。でも、本当は金森田、金森田玄斎大先生だと思うんです。
亡くなられた人のノートを勝手に処分する事は、大先生クラスの人で無ければ出来ないから、私はそう思って
います」
キラ星は冷静に分析して言った。昇の役に立ちたかったのだろう。
「やっぱり金森田さんが絡んでいたんだ。予想通りだ」
林果と話し合っていた時に出て来た一つの考え方が、正しい方向にあった事を昇は確信した。しかし、それが
分かっても、おいそれとは糾弾出来ない。
「警察に訴えますか? 昇さんがそうすると言うのなら、私は全面的に協力しますわ。その代わり、その、私と
一緒になって、……」
キラ星は言葉を濁した。少し虫が良過ぎるとも思ったのだ。
「うーん、難しいだろうな。動機がハッキリしないし、いざとなったら、トカゲの尻尾切りみたいな事になるんじゃ
ないのか? キラちゃんや、吉野川先生とかが罪を被って、一件落着とかね。それにノートを処分しただけの罪
じゃ高が知れているしね。遺族の人と示談という事で終るかも知れないし」
「ええっ! あの、他に何かあるんですか?」
キラ星は昇が賢三の死に疑問を感じている事には気が付かなかった様である。
「宝本先生の死因なんだけどね、俺は単なる事故死じゃないと思う。俺は先生と一緒にお酒を、ワインを飲んだ
んだ。二人ともグデングデンに酔ってしまって、俺の家は先生のお宅から近かったから何とか帰れたけど、先
生が学校まで歩いて行ったなんて信じられない。先生の車は家にあったんだから、誰かが車で連れて行ったと
思うんだよ」
「タクシーとかじゃないんですか?」
「それだったら分かる筈だよ。一応警察で捜査したんだからね。俺が容疑者だったんだから」
「ええっ、昇さんが!」
「ああ、でも無罪放免になった。そりゃそうだよ、俺は車の運転は出来ないし、先生を小学校に連れて行く理由
が無い。結局有耶無耶になった」
昇は賢三が殺されたとは言わなかったが、そういう風にも受け取れる言い方である。
「ま、まさか、殺されたんですか、宝本さんは?」
キラ星はつい言ってしまった。
「それがハッキリしないんだよね。階段から転げ落ちたらしいというだけで、後の事は分からない。結局事故死
ということになったけど、本当に事故死であったにせよ、彼を取り壊す寸前の小学校に連れて行った者に、何ら
かの責任は有ると俺は思っている。交通事故で言えば、ひき逃げに相当するんじゃないのかな? そこまで行
かなくても、大怪我をした彼を何処にも連絡せずに放置したとすれば、社会的責任は重大だと思う」
断定的に言えなくて、昇はもどかしかったが、証拠らしい証拠が何も無い状況では仕方の無い事だった。
「さて、今日の所は帰るから。それと勘違いしないで貰いたいんだけど、キラちゃんは好きだけど、俺の彼女と
は認めていないからね。……冷たい様だけど分かっているよね?」
昇は心苦しかったが、明白にしておかなければならないと思った。考え様によっては割り切った大人の付き合
いのようなものである。
「わ、分かっているわ。そ、それじゃあ、また明日……、うううっ!」
キラ星は平静を装うとしたが出来なかった。涙が幾つも零れた。昇は直ぐ背を向けて、一度も振り返らずに、
「今日はどうも有り難う!」
と言い残して外に出た。後ろ髪を引かれる思いだったが、唇を噛み締めて振り切った。
『やっぱり抱かない方が良かったかな?』
キラ星の心情を考えると、胸が痛んだ。しかし直ぐに次の難題が待っている。
『月に一度帰って来るんだよな。ああ、家に帰りたくない。だけど、そうとばかりは言っていられない。今日は林
果に会えなかったけど、何とか明日には会いに行こう。
しかしキラ星との事がばれたら? その時はその時、林果が俺の中で一番である事に変わりは無いんだから、
それを強調する事にしよう。先ずは家に帰ろう』
結果的には、昇が言った一時間位という言葉は、だいたい当った。帰宅したのは午後七時頃である。
「ただ今!」
昇は開き直って、割合元気に帰宅した。
「お帰り、お父さん今お風呂に入っているから。もう上がる頃だと思うけど、昇も入る?」
「うん、超特急で入るよ。えっと、仕事の方は順調だから。お父さんに話した?」
「ええ、勿論よ」
「何か言ってたかな?」
「ほう、とか言ってたけど?」
「ああ、そう。じゃあ、部屋に居るからね。お父さんが上がったら、声を掛けてくれれば良いよ」
「あいよ」
昇はそう言って、自分の部屋に行こうとしたのだが、パンツ一丁で、父親が浴室から現れた。
「ああ、俺直ぐに入るから。今、着替えを持って来るよ」
昇は母に向かって言った。父とは顔を合わせなかった。父は無言であった。
三人の夕食が始まった。父は必ず晩酌をする。熱燗のお銚子二本と決まっていた。父と息子の会話は無い。
父は妻とだけ話し、息子は母とだけ話した。
酒が進むと少し愚痴を言う様になる。
「何で、高校を中退した!」
酒の勢いでそう叫んだ。昇は父の顔を漸(ようや)く見たが、何も言わなかった。言っても無駄である事を知っ
ている。
名だたる進学校、北岩高校を卒業して、一流大学に入り、そこを卒業して、一流企業に就職する。そのコース
以外の道は昇の父、昇喜(しょうき)には考えられなかった。
昇喜は家庭が非常に貧しかった為、進学を断念して、社会人になった。その後の努力で、かなり大きな会社
の、ある程度の地位まで登りつめたのだが、幹部にはとうとうなれなかった。今後もその見込みは無い。
『一流大学を出ていないと幹部にはなれない!』
昇喜はそう思い込んでいた。学歴など無くても自分で会社を興して、一流企業にのし上がって行った人間も少
なからず居るのだが、彼にはそういう道は全く見えなかった。会社を自分で作るという発想がそもそも無かった
のだ。
仮に一流大学を出たところで、狭い発想しか持てない彼が、一流企業の幹部になれるかどうか、はなはだ疑
わしい所であるのだが、その様な疑問は一切持っていなかった。
昇喜はまた、かなりの読書家だったのだが、その読書から得られる数多くの教訓は、彼の場合殆ど生かされ
ていなかった様である。
実際彼は自分の思うに任せない息子の心理を探ろうと努力はしていた。青少年の心理について書かれた本
等を、しきりに読んでは理解しようとしていたのである。
ところが彼の目で見た場合、心理学の本など何の役にも立たなかったのである。何故なら、それらの本に書
かれた如何なる真実も、彼の思ったコースから外れるものは、全て放棄してしまったからである。
『所詮は学者先生の机の上の理屈に過ぎない。現実はそんなに甘くは無いぞ!』
そう思った様である。しかし実際には、甘い認識しかなかったのは彼自身だった。極めて狭い自分だけの、
或いは自分の周辺に居る、ごく少数の者のみの世界に閉じ篭っていた事に、昇喜は遂に気が付く事は無かっ
たのである。
無学の身でありながら、大変な努力と勇気とを奮って、やがて社会的に高い地位に登りつめて行く、幾多のサ
クセスストーリーを読んで、深い感銘を受けていたのにも拘らずであった。
「お休み!」
酒に飲まれて絡み始めた父親からは逃げるに限るのだ。今更高校を中退した事を責められてもしょうがない
のだが、理屈の通用する相手ではない。
昇喜は酒を飲まないと、家族には何も言えないような男でもあった。しかし酒を飲むと妙に絡んで来る悪い癖
が、若い頃からあった。
息子に絡もうとする父親を制して、母の水江は明日の予定を聞く。
「お休み! 明日は何時も通りで良いの?」
「ああ、今日と同じで良いよ」
「はい」
昇は自分の部屋に向かって歩きながら母と会話し、終る頃には部屋に丁度着いていた。父の昇喜は、ぶつ
ぶつと不平を暫くの間水江にぶつけて、そのうち寝てしまうのが何時ものパターンだった。
『ふう、どうしようもないな。あんな酔っ払いにはなりたくない。酒を飲んでも、酒に飲まれて、人に絡む事だけは
止めよう。……ああ、今日は色々な事があったな。
しかし林果に会えなかった事だけが残念だな。でももし会ったとして、キラ星との事を何と説明する? エッチ
の練習をしたんですって言えるか? もし激怒したらどうする? うーむ、やっぱり秘密にしておいた方が良い
様な気がする。……ふーむ、本当にそうか?』
ベットに潜り込んだものの、頭の中を様々な思いが駆け巡って、その夜はなかなか寝付かれなかった。