夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
312
「ねえ、キャロルとは一杯エッチしたんでしょう?」
「う、うん、まあ、治療の積りだった」
チャーリーは嘘を言った。
「ふうん、治療だったらエッチして貰えるんだ。だったら私も恋に狂っちゃおうかな」
正美はかなり酔っていて、呂律の回らなくなった舌で、それでも懸命に言った。
「おいおい、正美さんまでそれじゃあ私の身が持たないよ」
チャーリーの場合は幾ら飲んでも酔う事はない。お酒のアルコールを腸で吸収する訳ではないので、酔う
事も無いのである。しかしここはそれでは拙いと思って、少し酔った振りをして、体を振らつかせながら言った。
「ねえ、せめてキス位はしてくれても良いでしょう?」
如何にも酔った勢いで言った。しかしチャーリーの反応は無い。更に正美は言い続けた。
「それともそれさえも出来ないのかしら? あのキャロルとか言う小娘に惚れちゃったの?」
次第に絡み始めた。
『うーむ、こりゃ拙いな。仕方ない、キスだけでもしようか?』
かなり迷いながら、それでも徐々に正美の唇に自分の唇を重ねようとした。正美もその気になって目を
瞑った。その時不意にドアの開く音がしたのである。
「バタンッ!」
ほぼ半裸の状態で髪を乱して立っていたのは、目に狂気の宿るキャロルだった。
「正美! 私のチャーリー様から離れろ!」
激しい怒りを英語でぶつけた。
「煩いわね! 人の部屋に勝手に入って来るんじゃないよ!」
正美も激しい口調で英語でやり返した。
「どうしても離れないんだったら、こっちにも覚悟があるわよ!」
キャロルはスタスタと歩いて来る。右手を後ろ手にしているので、何か凶器を持っている様だった。
「キャロル止めなさい! 自分の部屋に戻りなさい!」
チャーリーは相当に厳しい口調で叫んだが、
「申し訳ありませんが、幾らご主人様の命令でも、その女を許す事は出来ません。ええい、正美、死ね!」
人間離れしたスピードで、キャロルは右手に持った果物ナイフを振りかざし、正美の胸目掛けて振り下ろ
した。
「ああっ!」
叫んだのはキャロルだった。あっけなくチャーリーにナイフを奪い取られてしまったのである。
「こういう危険な物はこうしておきましょう」
チャーリーはいつもの様にナイフをU字型に折り曲げ、更にもう一度折り曲げてしまった。最早使い物にな
らない。それをゆっくりとテーブルの上に置くと厳しい表情でキャロルを睨み付けた。
「キャロル、君は私の命令に背いた。これから厳しい罰を与える事にする、気をつけ!」
「は、はい」
キャロルは目に落ち着きがなかったが、兎に角気を付けをした。
「バシィッ!」
「ギャッ!」
チャーリーの平手打ちがキャロルの左頬を捉えた。相当に手加減したのだが、それでも口の中が切れた
し、歯が一本折れた様である。口からダラダラと血が滴った。
「ウゲッ、ゲホッ!」
「正美、テッシュを貸してくれ」
「あ、は、はい。あ、あの、お医者さんを呼びましょうか?」
正美はチャーリーの怒りの凄まじさに恋愛感情など吹き飛んでいた。
「医者は要らない。さあ、これで拭きなさい。床もだぞ。それが終ったら次の罰を与える」
「ううう、は、はい、うう、ゲホッ!」
キャロルは泣き出しそうだったが必死で堪えた。口の中から折れた歯が一つ、血まみれになって出て来た。
それを見ると、もう失神しそうだったが、チャーリーの前ではそれも出来なかった。
「これから自分の部屋に帰って貰うが、小用を足す事と、うがい位は許す。しかしそれ以外明日の朝まで、一
滴の水も飲んではならない。一睡もしてはならない。
欠伸(あくび)も駄目だ。横になってもいけない。イスに座って、ひたすら反省しなさい。後で見に行く。もし
命令違反が一つでもあったら、その時は、捻(ひね)り潰す。分かったか!」
普通だったらジョークの様に思える、捻り潰すという言葉が、チャーリーに限ってはジョークには到底思え
なかった。
ペチャンコに潰れた、空き缶の事をキャロルばかりではなく、正美も、そして当のチャーリーも思い出して
いた。
チャーリーの目は厳しく真剣だった。正真正銘、本気だったのだ。その気迫がキャロルにも、正美にも良
く分かった。
「わ、わ、わ、わ、分かりました。め、命令には従います」
「だったら行け。鍵は開けて置けよ。閉まっていたら、ドアを壊して入って行くからな。絶対に逃げ出すなよ!」
チャーリーは厳しさの追い討ちを掛けた。彼の死に物狂いの荒療治でもあったのだ。
「はい、逃げません、鍵は開けておきますから。どうぞ何時でも見に来て下さい。そ、それでは失礼します」
少し出血が収まって来たのだろう、喉に流れ込んでむせていたが、その回数がグッと減って来たことから
も分かった。
キャロルはテッシュを厚めに重ねて口を覆いながらその場を去って行った。その後姿には、狂気らしさは
全くなかった。
『ふう、相当の荒療治だったが、うまく行くかな。これで失敗したら尚更厄介だぞ……』
そう思いながら正美の顔を見ると、もう酔いはすっかり醒めていて、顔色が真っ青だった。
「あ、あのう、今夜の所はそろそろ……」
恐る恐る言った。
「ああ、今帰るけど、しかしかなり床が汚れたね。掃除しようか?」
「いいえ、私が何とかしますから大丈夫です」
「そう、あれ? 水かな? ああ、これは多分失禁したんだなキャロル。ちょっと気の毒だと思ったけど、あの
位しないと目を覚まさないと思ったからね」
「えっ! さっきのは、キャロルの治療の意味だったのですか?」
正美は驚いて聞いた。
「うん、ただ、怒りは本物だよ。殴る瞬間に思いっきり手加減したから良かったけど、そうでなかったら、それ
こそ救急車を呼ぶ必要があっただろうね。
もっとも首の骨が折れてしまったら即死だけどね。まあ、さすがにそこまではしないけど、でも、さっき言っ
た捻り潰すということは、本気だからね。例えば足首から先を粉々に潰す積りなんだよ」
チャーリーは平然と言った。
「え、え、え、そ、そんな。む、むご過ぎます。幾らなんでもやり過ぎです」
正美は恐怖に戦(おのの)きながらも、必死で言うべきことは言った。
「いや、私はそうは思わないね。君を殺そうとしたんだ。素手の君をナイフでね。本来だったら殺されても文
句は言えない筈だ。それが足先一つを失う位、大したことじゃないさ。命までは取らないのだからね」
チャーリーには一切の妥協が無い。
「チャーリー、貴方を見損ないました。もう、帰って下さい! ううううっ」
正美は涙を零しながらチャーリーとの決別を宣言したのである。
「ああ、少し考え方に違いがあるようですね。それじゃ、さよなら」
チャーリーはさよならの後は一言も言わずに正美の部屋を出た。
『すっかり嫌われてしまったかも知れないな。だけどこれで良い。キャロルに対する荒療治が正美に対して
の荒療治にもなったんだな。まあ、一石二鳥って所だな。
さあ、一休みしたら、キャロルの様子を見に行きましょうかね。まさかとは思うけど、命令違反は無いだろ
うね……、もしあったらどうしよう? ふむ、その時はその時にしよう。先ず一休み、一休み』
チャーリーは自分の部屋に戻ると、さっさと服を脱いで、また沈み風呂に入った。
『ふう、もう午前零時を過ぎている。それにしても大変な一日だったな。エッチの嵐が吹き荒れたと思ったら、
今度はDV(ドメスティック・バイオレンス)か?
はははは、訴えられるのかな? しかしまあ、それも良いだろう。どの道俺には先行きが無いのだからね。
ただちょっと厄介な事になるかな?』
ここが訴訟の国アメリカである事を思い出していたが、もうどうなっても良いと思った。それから風呂の底
で一時間ほど眠ってから、着替えて、キャロルの部屋にずかずかと入って行った。
「あれ? ゲルク? キャロルはどうした?」
思いも掛けなかった事だが、キャロルの姿は無く、その代わりと言うべきか、ゲルクがイスに腰掛けてい
たのだった。
「ああ、いらっしゃい、チャーリーさん。実はお話があります。その、いきなり殴る事は止めて下さい。殴るの
だったら、私の話を聞いてからにして下さい」
ゲルクの目にも怯えが見えたが、
「はははは、理由も無くいきなり殴りはしないよ。その、話というのはキャロルのことか?」
チャーリーはいつもの調子に戻った感じで言った。
「はい。キャロルは私が勝手に自宅の方に返しました。ケッペル先生にも了承して貰っています。その、水を
一滴も飲んではならないとか、一睡もしてはならないとか、横になってもいけないとか言ったそうですね?」
「うん、確かに言った。正美をナイフで刺し殺そうとしたからね。別に一生やれとは言っていない。朝までとい
う条件付だ。
人一人を殺そうとしたんだから、その位の罰で済めば安いものじゃないかのな? その前に平手打ちで歯
が一本折れたけどね」
「でも、命令に違反したら、捻り潰すとも言いましたよね?」
歯の折れた事等には委細構わず、更に追求した。
「そうだ。命令に従わなかったらという条件付だけどね」
「余りに酷いです! 可哀想に彼女は泣いて私のところに電話をくれました。それで私は慌ててここに来て、
事情を詳しく聞いて、彼女を自宅に帰すことにしたのです。
どんな事があっても絶対に彼女を守ると言ってね。それでも最初は中々帰らなかったのですが、ケッペル
先生に相談して、了承を頂いて、それで彼女も納得して帰ってくれました。承服出来ないのでしたら私を捻
り潰して下さい。死ぬ覚悟は出来ていますから」
ゲルクは正しく本気で死ぬ覚悟をしていたのだった。