夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
33
午後五時になって、昇は早速帰ろうとしたが、恐れていた事が起った。キラ星が待っていたのである。
「あの、家に、寄って行って下さい。お話したい事がありますから、うううっ……」
キラ星は断られると思ったのか、もう既に泣き出し掛っている。
「悪いんだけど、毎日という訳には……。もう噂になっているんですよ、俺とキラちゃんの事。困るんだよね、気
持ちは嬉しいんだけど」
昇は断ち切る決心をした。
『明後日には林果と会うことになっているんだぞ!』
そう思うと、情欲に負けていられないのだ。
「うううっ、私を弄んでおいて、それはないでしょう!」
キラ星は女の武器を使い始めた。しかも今度は性行為があった事を暗示して、それに付け加えている。しか
し林果への思いがそれを上回った。
「それでは約束が違いますよ。さよなら」
昇はキラ星に背を向けて歩き出した。
「ま、待って、ご、御免なさい。私を見捨てないで下さい。たまにで良いですから会って下さい!」
キラ星は叫んだが、追い掛けては来なかった。これ以上しつこくしたら決定的に嫌われてしまう事を知ってい
る。昇は無言で、一度も振り返らずに自宅に歩いて帰って行った。キラ星も泣きながら歩いて帰ったようである。
「ただ今。お父さんは?」
昇は姿の見えない父親が、もう単身赴任先に帰った事を期待して母の水江に聞いた。
「今日はお友達の所へ行っているのよ。帰りは遅くなるそうよ。昔の仕事仲間とミニ同窓会なんですって」
「ああ、そう。じゃあ、風呂に入るから。ちょっと早いけど、夕食は午後六時位が良いな」
「はいよ」
水江はたった一言返事をしただけだが、その一言に昇の気持を理解している思いが表れていた。
『お父さんと顔を合わせたくないのよね。早く食事をして、早く寝てしまった事にすれば、自然な感じで顔を合わ
せなくて済むから。もっとも、お父さんの方もそれが嫌で遅くなる事にしたみたいですけどね……』
水江は漠然とそう感じながら返事をしていたのである。昇にもそれは分かっていた。
テレビをつけて、ニュースなどを見ながら、何時もより多めにお喋りして、夕食を取った。不思議なもので、不
愉快に思える父親でも、居ないと妙に寂しく感じられるのだった。それを誤魔化す為に、昇も水江もわざと賑や
かにしていた。三十分ほどで夕食は終ったが、
「ああ、明日は深夜番で、仕事は午後五時からになるから。それで明後日は休みだから」
「うん、分かった。明日の朝は普通に起きる? それとも……」
「朝食はいらない。昼食はカップ麺にしておくから。夕食はスーパーの方で休憩時間に食べるからいらない」
「ええと、それじゃあ、明日一日、お昼以外は家じゃあ食べないのね?」
「うん、そういう事になる。明日の帰りは遅くなるけど、鍵を掛けて寝ていても良いよ。物騒だからね、何かと」
「そうね、じゃあそうさせて貰うわね。最近は本当に物騒になったから仕方が無いわね」
こうして翌日の予定は決まった。午前中に赴任先に帰ってしまう父親と、顔を合わせずに済む事になるのだが、
二人ともそれに付いては一言も触れなかった。
「キラ星……」
自室のベットにパジャマを着て寝転がりながら、呟いた。
『ええい、くそ! 結局、泣かせてしまったじゃないか!』
酷く胸が痛んだ。しかしどうしようもなかった。
『やっぱり抱かなければ良かったのか? しかし俺は経験してみたかった。彼女にもそれは分かって居た筈だ、
恋愛感情じゃないって。でも、俺を好きだという感情を利用した。俺は卑劣なのか?』
昇は自分を少し責めたが、
『しかし何と言われても、これ以上彼女とズルズル関係を続けていられない。林果を失いたくない!』
結局、そうなる。本能はキラ星との情交に溺れたがっているのだが、理性が頑強にそれを拒んでいた。
『……だけど、どうして香澄が?』
昇はわざわざやって来た香澄の行動が不可解に思えた。
『あんな女王様気取りの女が、使い走りをするとも思えない。何か魂胆があるんじゃないのか?』
そう思いながらも、香澄の美しい肢体を思い浮かべる。
『綺麗なバラには棘(とげ)がある。本当に綺麗な子だけど、ちょっと怖いんだよな。何を考えているのか分から
ない様な所があって』
昇の本能は香澄との情交も望んでいたが、
『キラ星も扱いが大変だけど、香澄はそれ以上だ。迂闊に誘いに乗らない方が良いな。ああああ、惜しいけど
な……』
残念至極ではあったが、拒否せざるを得ないという結論に達していた。
『だけどどうして、俺の事が好きなんだろう? 俺が綺麗? 有り得ないよな……』
昇は鏡に映した自分の顔を思い浮かべてみる。
『うーむ、食欲の減退する様な顔だ。眼鏡掛けてるし。少なくとも顔じゃ無いな。金持ちじゃないし、デブッて言う
ほどじゃないけど、スタイル抜群とかじゃない。背も低い方だし。
格好良い? いや全然。お洒落? 全くお洒落じゃない。じゃあ、何だ? そうか、性格が良いのか? しいて
言うのならそれしかないな。
本当に性格が良いか? かなり怪しい。ついこの間までニートだったし、女も泣かせているし。……駄目だ分
からん、寝よう』
父親の深夜の帰宅に気付きたくなくて、午後八時頃眠りについた。それでも午前零時頃、父親が帰宅した事
は微かに分かったのだったが、やや強引に深い眠りに自らを誘って、記憶を曖昧にした。それが昇に出来る精
一杯の抵抗であった。
夜明け少し前、少し肌寒い午前三時過ぎ位に目が覚めた。
『難しいことを考えて、頭を疲れさせよう。眠くなったら、また眠れば良い』
徹底して父親と顔を合わせない作戦でもあった。しかし空腹を感じた。夕食が少し早めだったので、仕方の
無い所だろう。こっそり起きて、台所でガスでお湯を沸かし、カップ麺に注いで、買い置きしてある割り箸を持っ
て自室に戻る。
「ふう、温まって良いな」
カップ麺を啜りながら呟き、『続・夏休み未来教室』の幾つかの課題について、宝本賢三の残したノートを参考
にしながら考え始めた。
『大きな数と言えば、小数点以下の桁が大きくて、しかも無限に、且つ不規則に続く円周率というのがあるよな。
現在の所、確か一兆桁位まで計算されているとか。
日本が世界一だとか聞いているけど、もし、仮にそれ以上に膨大な計算の必要な証明があったらどうするの
だろう?
いや、もう少し別に考えて、目茶苦茶複雑な証明があったとして、その証明に宇宙全部の広さより大きいス
ペースが必要だとしたらどうだろう?』
昇は首を傾げ傾げして考えた。
『そうなったら最早証明は不可能だよな。勿論実際にそんなに大きくスペースが取れるとは思えないから、もっ
とずっと小さいスケールの証明しか出来ないだろうけどね。
ううむ、しかし夜明け前に食べるカップ麺というのもなかなか良いね。侘しくもあるけど、自由でもある。しんと
した中でカップ麺を啜る音だけが部屋に響く。何か受験生みたいだな……』
ちょっとした感傷に浸ったが、そこいら辺りでカップ麺を啜り終わり、夜食或いは早めの朝食は終了した。ま
だ眠くならないので空の容器を処分してから、更に考え続ける。
『もっと現実的な事を考えると、例えば百兆ページに亘(わた)る膨大な証明でも、それを収納するのに今だった
ら大きなビル一つもあれば事足りるけど、そんな証明が本当に可能なんだろうか? 多分それ以前に宇宙が
終焉を迎えるんじゃないのかな? とすれば証明は出来ないことになる。
それと関連してくるけど、『存在定数』なる正の整数は巨大な数だけど、でも有限の数だし把握出来る範囲に
ある筈だよな。
もし把握出来ないほどの大きな数だとしたら、それは根本的に考え方を変えなくちゃ駄目だ。事実上無限大
と同じ様な事になってしまうからね。多分そうでじゃないだろう。
だとすれば、その定数は何か特別な数なのか? この世の中に特別な数なんてあるのかな? 流石に宝本
先生のノートにも、それは難問だとしか書いていない。ううむ、さっぱり分からない……』
昇はじっと考え続けたが、結論が出ないまま眠くなって寝てしまった。夜が明けて暫くしてからの事だった。
「昇、じゃあ、お父さんを送りがてら、一緒に出掛けますからね。一応用心の為に玄関に鍵は掛けて置きますか
ら。
何時も通り午後四時位には帰れると思うけど、もしその前に出掛けるんだったら、鍵は必ず掛けてね。じゃあ
行ってきます」
ドア越しに母親の水江の声が聞こえた。
「はい! 行ってらっしゃい!」
昇は敢えて大きな声ではっきり言った。小声だと心配してわざわざ部屋に入って来るかも知れないので、大声
を出さざるをえなかった。父親のぼそぼそした声も微かに聞えたが何を言っているのか分からなかった。
「ガチャッ!」
玄関に鍵を掛けた音を合図の様に、昇は跳ね起きた。珍しく運動をして多少なりとも体を絞り、風呂に入り、
彼なりにめかし込んで、頃合を見計って、勿論鍵はしっかり掛けて、スーパー万田屋の梅ノ木店に行った。今日
は日曜日。開店は九時からである。
『俺は客なのだからな。遠慮する事は無い筈だ。小姫も客だとしたら良いと言っていた筈だしな!』
昇は余り目立ちたくなかったので、九時調度位に店に入った。まだ客は余り多くない。混んでいる時には迷惑
だと思ったので、空いている時間にしたのである。
しかし昇の考えはちょっと甘かった。彼の噂は何かと聞こえて来ていて、スーパーに入った途端、多くの従業
員の注目の的になってしまったのだった。