夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
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ひたすら車の中の出来事を思い出していると、突然主治医らしい男の声がして来た。
「今度は耳、行きます。何も聞こえなくなって辛いでしょうが、我慢して下さい。もし絶対に嫌なら、中断しま
すが?」
「いや、構いません。あのう、一々聞かなくても、宜しいですよ。今回が初めてではありませんし。精神的に
ダメージがある場合には脳波に激しい乱れが生じますから分かりますよ。
脳波の状態で判断して下さって結構ですから。何と言いますか、その様に聞かれるとかえって不安にな
るのですよ」
「ああ、そういうものですか。申し訳ありません。私は今回が初めてなのでちょっと気になりまして。やはり
正美さんの言う通りでした。それでは今後は特に話し掛けずに行きますが、宜しいですね?」
今回の主治医は優秀な若手外科医らしいのだが、サイボーグの手術はこれが初めての様である。その
為もあって正美がサポートする事になったのだ、という事情にチャーリーも気が付いた。
「はい、正美さんはベテランですし、私との付き合いも長いので、その辺宜しくお願いします」
「了解しました。それでは手術を続行します」
若い医師はその後はチャーリーには殆ど話し掛けずに黙々と手術をして行った。ただ長丁場な上に、メ
インの術者も何人も居るので、その引継ぎの方が大変かも知れない。
その辺の事も正美がリーダーシップを発揮して行われる様である。彼女がチャーリーとずっと一緒の行動
を取ったのは、また周囲がそれを望んだのにはその様な裏事情もあったのだ。
愛する男の為なら、全力を上げて職務を全うするだろうというシュナイダー博士の考えを取り入れていた
のである。
従って正美とチャーリーとが性的関係を持つことは、博士やケッペル、アーノルドなどの空軍関係の上の
者達が密かに望んでいた事だったのである。その希望は見事に予想通りとなったのだった。
『はあ、どんどん外からの情報が減って来た。もう何も聞こえないし、何も見えない。触覚も無い。匂いも無い。
まあ、何時もの事だけど、今回は何かひどく寂しさを感じるな。
セックスも食事も出来る様になったし、大小便も擬似的ではあるけれど出来るようになった。より人間に
近いから逆にそれらを失うダメージが大きいのかも知れない。おっとっと、余り悩むと脳波が乱れるな。
そうだななるべく楽しい事を連想しよう。しかし性的に過激な事を考えるとやっぱり脳波が乱れそうだぞ。
ついつい興奮してしまうからね。まあ、程々のところにしておこう』
チャーリーは過激な事はなるべく考えないことにした。今回の主治医の一人はやや細かい事を気にする
タイプだと思ったからである。
『細かい事に気が付くのは良いが、それを気にし過ぎるとろくなことは無い。なるべく安心させてやることに
しよう。ただ、夢だけはどうにもならないね。殆ど無意識の状態なんだからね。
しかし外からの情報が皆無になると、夢なのか現実なのか訳が分からなくなるよな。あれはちょっと困る
けど、まあ、正美はその辺も心得ている筈だ。
心配したってしょうがない。それにベテランは彼女だけじゃない。見知った顔が他に数人居るしね。まあ、
後は運を天に任せるしかないね。
さあて、楽しい事、嬉しい事か。何があったかな。い、いかん、どうもエッチ系の楽しさばかりが思い浮か
んでしまう。こういう時は難しいことを考えると良いんだよね』
チャーリーは性的に激しく興奮しそうになって慌てて軌道修正した。
『そうだな、暫く今回の手術に関しては考えないことにしよう。何しろ時間はたっぷりある。エッチ系からも離
れるとすると、やはり未来論か?
ふうむ、いや、それも重要だが、今日は一つ時間に関して考えてみようか。アインシュタイン以前は時間は
絶対に一定に進むものと考えられていた。
しかし彼の相対論から、時間も収縮したりする事が知られるようになった。強い重力が働くという事は物
質が縮みその分時間が遅くなる。
となると、ある場所では時間の進みが速く、別の場所では遅いことが生じる。日本人の命名した『浦島効
果』は浦島太郎の昔話から、時間の遅れが有り得る事を意味している。
遅れた方からこっちを見ると、速く進む事になる。時間の進む速さが常に一定ではない事を意味している
と思うけど、しかしこれはもう少し吟味した方が良さそうだな』
恐らくはこれが最後の手術になるだろうという予測から、チャーリーは、いや、既にチャーリーの体は、林
谷昇から離れ、既に一部を除いて処分されつつあったので、今後は昇と言うことにしよう。
昇は気になっていた時間という概念について、少し考えておこうと思ったのである。手術が終ってからでは、
とんでもなく忙しくなりそうな予感があって、のんびり考える事も出来無さそうに思えたからである。
『多くの物理学者は、時間という概念を多少だけど軽視する傾向があるような気がする。でも俺はそうは思
わない。
存在はするが時間が無いなんて有り得るだろうか? そう主張する連中も居る様だけど、どう考えても変
だ。かの車椅子の天才、スティーブン・ホーキングは宇宙の時間はやがて逆転する、とか言って、物議をか
もした事があった。
彼もまた時間軽視論者の一人なのだろう。彼の考え、まあ、彼ばかりではなく、一部の他の物理学者も
そう考えているらしいけど、今現在猛スピードで膨張している宇宙がやがてどこかで止って、収縮に転じた
場合、時間が逆転してしまうというのだ。
壊れたコップが元に戻ると言う。有り得ない話だよね。何かがおかしい。その何かはまだ分からないけど
彼も最近ではそのことには触れなくなったし、言わなくなったようだな。まあ当然だ』
難しいことを考えると頭が相当に疲れるので一休みしてからまた考え続けた。
『しかし誰も気が付いていないような気がするけど、時間が一定では無いのに何故この宇宙が一つに保た
れているのか、それは大きな謎だと思うんだけどね。
それと大いに関係のあるプランクの時間やら長さが認められている。つまり最小の時間や長さがあると
いうことだ。
如何なる事があっても、ある一定の長さ以下の物は存在しないし、ある時間より短い時間も存在しないと
いう事なんだよね。しかしそれと相対論との関係は?
物凄い重力によって物質が縮むとすれば、プランクの長さも縮む? いやそれではプランクの定数の意
味が無い。
それと時間もまた量子的にというか、デジタル的な変化しかしないと思うんだけどね。つまり最小の時間の
整数倍の時間しか存在しない筈だよね。
もしそうで無いとすれば、その時間差によって、無限に小さい時間が存在する事になる。そもそも無限に
小さいとか、無限に大きいなどという概念は非存在系なのであって、現実には有り得ない。
となれば、それらを総合すると、最小の物質が存在する事になる。そしてその物質は大きさも最小だけど、
それゆえに時間も最小の単位を持っていると俺は考えているんだけどね。
超ヒモ理論とか、超弦理論とかいう奴だよね。でもこれは英語では、確か『SUPER SUTRINGS THE
ORY』(スーパー・ストリングス・セオリー)だったと思ったけど、どうしてヒモ理論なんて言うんだろうね。
まあ、それは兎も角、時間が整数倍だとすれば、ちょっと面白いことになる』
そこでまた一休みしてから考えを発展させて行く。
『現在の量子力学はどうもおかしいぞ。空間を無としながらそこに意味を与えている。しかし、無は無だ。何
かがあるとすれば、やっぱり何かが、確かな何かがあるのだ。
その何かは想像を絶する何かだろう。それでもやっぱり何かがある。現在の量子力学に対する俺流の
反論は自分自身、或いはまあ、存在の基本原理、唯一性について何も語れないということだ。
若干語れているのは同一性だけだ。自分では『量子力学的同一性』と呼んでいるけど、これは片手落ち
だ。
その為なのか、一部の少し頭のいかれた物理学者達は、またぞろ、くだらない精神優位論等を持ち出し
て来ている。
何度同じ過ちを繰り返せば良いのか。世界に存在するのは物質だけなのだ。その謎は果てしも無く深い。
にも拘らず物質は物質、精神は精神と世界を、この宇宙を二重構造に考えている。
はあ、嘆かわしい事だな。まるで物質の世界の事を何でも知っているかのように思い込んでいるのだろう。
それがそんじょそこらの学者だったらまだ良いのだが、ノーベル賞を受賞した様な連中が言っているのだ
から始末が悪い。
ふう、これでは物理学の将来は暗い! ああ、いかん、つい、興奮してしまった。さて、まだまだ時間に関
しては考えが不足している様だけど、ちょっと興奮気味だから、一眠りするか。
はははは、でも、真っ暗闇でそれこそ時間の感覚が麻痺してしまいそうだ。もうかなりの時間考えている
と思うけど、一体何十分考えたのかな? それとも数時間も考えたのかな?」
昇は次第に時間の感覚が薄れ夢うつつの世界に入って行くのを感じていたのである。
『ええっ! 部屋の中に裸の女達がいるぞ。有り得ない! そうか、これは夢だな。しかし何かとても気持
ちが良い。性的な興奮がやけに高まって来たぞ! ああ、女達と情を交わしたい!
あれ? 何時の間にか女達はちゃんと服を着ている。ふう、どうして願望と逆の光景になるんだ? ああ、
そうか、夢だからだ。いや、どうして夢なのに考えることが出来る?』
昇は夢とも現実とも付かない奇妙な状況に陥っていたのだった。