夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
35
昇の他にも何人かが男や女の二人組に先導されて、廊下の向こうの一際明るい一角へと誘(いざな)われて
いる。
『ああ、俺だけじゃないんだな……』
そんな安心感がある。普段の昇だったら、桜が居るかも知れないと、勘ぐったりするのだが、雰囲気に飲まれ
ていて、全くその様な想像が出来なかった。
大広間を抜け廊下に差し掛かった時だった。
「ぐうう〜う〜!」
妙な音が昇の腹部から発せられた。腹の虫が鳴いたのである。空腹が限度を越えていたのだ。先導する二
人の女性にも微かに聞えたらしいが、昇の方をチラッと見ただけで、何も言わずにそのまま先導を続けた。
『えっ! 俺は何をしているんだ?』
昇は我に返った。それと共に急激に空腹感が増大した。
「あの、済みません、お腹が空いちゃって、レストランでちょっと食べて来ますから。その、相談の方はその後
で行きますから」
「うふふふふ、そうなのですか。それではこれを差し上げましょう。このカードを提示しさえすれば、レストランのお
食事は無料になりますわ。存分に食べていらして下さい。私共は大広間で待っておりますから」
最初に声を掛けて来た方の女性が微笑みながら、何時の間に手に持っていたのか、一枚のカードを昇に手
渡した。
「ええっ! は、はい、分かりました。それではちょっとだけ失礼します」
昇はカードが何処から取り出されたのか分からずに面食らったが、一応貰っておく事にした。軽く頭を下げて、
女性信者達の意向に従う振りをしてレストランに向かってゆっくりと歩き出した。
『慌てるな。走って逃げたりしたら逆に危ないかも知れないぞ!』
昇の警戒心は最高レベルに達している。
『カードの提示で無料のお食事だって? 余りにも話がうま過ぎる。何かある、きっと!!』
昇はゆっくり歩きつつ逃れる方法を懸命に考えた。
しかしうまい方法が思い付かなかった。
『何だか見張られている様な気がする』
そう思ってチラッと辺りを見回すと、出入り口付近には、必ず信者らしいローブの様な物を着た連中が複数
居る。
『ひょっとするとあいつ等は見張っているんじゃないのか? それとも単なる気のせいか?』
昇は確認してみたかった。
『一丁やってみるか! 超高いレストランだけど、カードを使ったらどんな反応を示すのか、それと待っていると
か言う連中は本当にただ待っているだけなのか。
それともやっぱり逃げたりしない様に見張っているのか。何にせよやってみるしかない。し、しかしちょっと怖い
な。バッサリやられる事はあるまいと思うけど……』
昇は随分迷ったが、金森田の正体を見極めたかったので、思い切ってレストランに入った。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
「はい」
「あのう、SHカードはお持ちですか?」
近寄って来たウェートレスは、直ぐカードの事を聞いた。
「はい、これですけど」
昇は、内心怖くて心臓がドキドキしたが、今更後には引けなかった。
「あ、はい、それではこちらへどうぞ」
ウェートレスは愛想良く昇を案内した。
昇の案内された所にも先客が何人かいたが、明らかに他のお客達とは待遇が違う。テーブルやイスが一回
り豪華であるし、所々に仕切りがあって、ハッキリと一般のお客とは区別されているのだ。
「ご注文は何になさいましょうか?」
昇を連れて来たのとは別のウェートレスがやって来て聞いた。一般客のウェートレスとは色調の違う制服を着
ている。
スタイルの良さは香澄を思い出させたが、ケバケバしい感じは一切無く、洗練された感じの態度といい、美人
度といい、どれも垢抜けした感じなのだ。
『絶対おかしい。何故だ? たかが悩める青年一人に何故ここまでする?』
昇は手渡されたメニューを見て更にビックリした。如何にも高級そうな料理ばかりが載っていて、しかも値段
が付いていない。
「ええと、お勧めはどれですか?」
見たことも無い様な料理ばかりで、とても自分で決められそうも無い。
「はい、スペシャルランチ等は如何でしょうか? 最上級の霜降り牛を使ったステーキと、ミックスサラダ、スー
プまたはお味噌汁、ライスまたはブレッド、食後にはアイスクリーム、それと、お飲み物は日本酒の他に、ビー
ル、ワインやウイスキー、焼酎なども御座いますが……」
ウェートレスはメニューを開いて見せながら昇に聞いた。少し気になったのはやたらそのウェートレスは昇に
接近して注文を聞いた事である。微かな甘い香りが昇の鼻をくすぐる。
「じゃあそれにするよ。スープとライス付きにして。お酒はいらないから」
昇はかなり緊張した面持ちで言った。直ぐ側にウェートレスの顔があって、かなりどぎまぎしていたのだ。
「ふふふ、はい、かしこまりました。少々お待ち下さい」
何故かウェートレスは愛想良く笑顔を見せて、その場を去った。
「ほっ!」
昇はウェートレスがその場を去ってほっとした気分だった。しかし直ぐ次の行動に移る。
『うーん、どうしてあんなに接近して来る?』
他の何人かの客を見ると、やはり同じ様に、顔を接近させている。
『俺だけじゃあなかったんだ。さて、それじゃあ、二人組の女達の様子を見てみるか……』
昇は少し考えてから、
『よし、こうすれば良いな!』
レストランは総ガラス張りな感じで、大広間からもこっちからも中が見渡せる様になっている。ただ大広間の
方はやや暗いので見辛いのだが、何とか見える事は見える。しかし直接見る訳には行かない。
『ばれたら怖い事になるかも知れない。……考え過ぎかな? ケータイの電源を切って、映してみれば……』
いざとなったら、急に知恵が回る所などは、アニメの『のぼっ太君』みたいなのだったが、今はそんな事を考え
ていられない。
昇は携帯電話を掛ける振りをして、電源を切って、液晶画面を鏡代わりに使ってみた。これはうまくいった。
大広間のレストランに近い所に陣取った二人が、じっと中の様子を伺って、何やらヒソヒソと話をしている様で
ある。
『やっぱり逃げない様に見張っている。ただ待っているだけならあんな所にいて中を見る必要は無い! それ
に無料なのに豪華過ぎる。ウェートレスの態度もおかしい。
しかも男の客には女性、女の客には男性のウェーターが付いている。絶対変だ! あれ? い、今一瞬だけ
ど若い女性の客に、ウェーターがキスしたぞ! 客の女の子は相当酒に酔っている。
もう間違いないな。……しかし一体どうする積りだ? まてよ、金を借りさせるんじゃないのか? それとも多
額の保険金を掛けて、バッサリとか。
何(いず)れにせよ、多分命に関わる事になる! この立派な宮殿みたいな教会! 信者の単なる寄付金位
じゃここまでは作れまいよ』
「お待たせしました。ああ、それからこれは私からの奢りですから。ここに置いておきますね。飲んでも飲まなく
ても結構ですから」
ウェートレスは相変わらずべたべたくっ付きそうな感じで、昇にサービスとして、注文した料理の他にワインの
ボトルとワイングラスとを置いて行った。
『何が何でも酔わせてしまう積りなのか?』
さっきウェーターとキスをしていた若い女性客は、そのウェーターに肩を貸して貰って、別室に消えた様である。
『ふうむ、こっちの廊下の奥に、部屋があるらしいな。多分地獄への入り口が。女だったら、風俗業をさせる手も
あるしな。男だってあるかも知れんけどね……』
昇は食事をするべきかどうか迷ったが、空腹状態の所に美味そうなステーキでは堪らない。ワインは飲まな
かったがそれ以外の物はほぼ完食した。その間、どうしたら逃げられるかそればかりを考えていた。
良い考えが思い浮かばなかったが、食うだけ食うと、今度は出したくなる。特に食後のアイスクリームはボ
リュームたっぷりで、冷たかったので、尿意がどんどん高まって来た。
「済みません、トイレはどっちでしょう?」
昇は如何にも自然な感じを装って言った。
「ああ、どうぞこちらです、ふふっ」
相変わらず愛想の良いウェートレスである。
昇はトイレに入ると、直ぐ個室に入ってみた。しかし窓など無かった。
『残念、逃げられると思ったんだけど……』
半ば諦めかけた。
『待てよ、ここの構造からすると、女子のトイレだったらひょっとすると窓があるんじゃないのか?』
そうも思ったが、流石に女子トイレに入る度胸は無かった。中に誰も居なければいいが、居たら大事(おおごと)
である。痴漢のレッテルを貼られてしまう恐れがあるのだ。
『ううーむ、どうする、どうする?』
個室の中で用を足しながら、必死で考えた。
『そっか、その手があったか!』
昇は何食わぬ顔で席に戻り、ウェートレスを呼んで、
「折角だから、このワイン飲みたいんですけど、摘みとして、ソーセージのセットをお願いします」
ワインを飲む事にした。
『酔った勢いで逃げ出そう!』
そう考えたのだった。
『酔った勢いで、玄関から堂々と出て行こう。玄関だったら一般の客も居る。きっと何とかなる!』
夕方から仕事があるが、止むを得ないと思っての事だった。
「うふふふ、はい、お待たせしました。ソーセージのセットです。私の気持ちを受け止めて下さって、本当に有難
う御座います。これはお礼の印です、チュッ!」
あろう事か、そのウェートレスもまた、昇にキスをした。一瞬ではあるが、唇にしたのだった。
「あ、あ、あの、えっと、……」
昇はこの時とばかりに、嬉しそうな戸惑いを見せた。勿論彼にとって、生まれて初めての本気の演技だった
のだ。