夏 休 み 未 来 教 室 


                                              春 野 夢 男

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「じゃあ、一杯目だけ私がお注ぎしますわ、ふふふふ」
 ウェートレスはやや固まった状態の昇に代って、小さなワイングラスに七分目ほど、ワインを注いで、
「それでは、ごゆっくり、どうぞ」
 と、意味ありげにウインクまでして見せてからその場を去ったのだった。しかし直ぐ近い所に立って、模様を見
ている。

『俺に気があるという感じか?』
 昇はウインクの意味など本気にしていなかったが、そういう演出であろうと考えた。しかし考えてばかりいては
疑われるので兎に角ワインを飲んでみる事にした。

「う、美味い!!」
 それは甘口だったが、実に濃厚な赤ワインだったのだ。思わず声に出すほど美味しかった。
『宝本先生の所で飲んだワインも美味しかったが、これもまた絶品だな。甘口のワインは余り飲まないんだけど、
これは別格かな?』
 昇は割合簡単に一杯目を飲み干した。するとすかさず、様子を見ていたウェートレスがやって来て、また同じ
位ワインを注いだ。

「ふふふ、美味しいでしょう? ここでブレンドしている特製のワインなのよ。売価は五万円位なんだけど、勿論
私の個人的なサービスですから、遠慮なく飲んで下さいね」
 ウェートレスはさり気無く昇の背中に手を添えて、如何にも親しげに話をした。毎度のごとく、顔が目の前にあ
る。まるでキスをしても良いと言わんばかりに近かった。

「ふう、一杯目だけ注いでくれると言ったと思いますけど……」
「貴方が素敵だから、気が変ったのよ。あの、奥の方に部屋が用意してありますから、お疲れの時は遠慮なく
仰って下さい。うふふふふ」
 ウェートレスは意味有り気に笑った。誘っている様にも思えるが、昇は一応拒否してみせる。
「いや、その、今日は夕方から仕事がありますから、悩み事の相談をしたら帰ります」
「あああ、それは残念ね。でも、もし気が変わられたら何時でも仰って下さいね、チュッ!」
 ウェートレスは帰しはしない、という意味に受け取れるキスを、今度は頬っぺたにした。今度も一瞬だった。
「ああ、はははは、……」
 昇は対応に苦慮して、苦笑した。ウェートレスは今度も近くに立って、昇の様子を見ている。これも考え様に
よっては見張っているのと同じようなものである。 

 摘みのソーセージのセットもなかなか美味しく、あっと言う間に二杯目を飲み干してしまった。直ぐにウェートレ
スがやって来てワインを注ぎながら三杯目を勧めた。
「良い飲みっぷりですわ。素敵だわ、ふふふっ」
「ふううっ、たった二杯だけなのに、何だか随分酔った気がする。ああ、済みませんトイレに行って良いですか。
さっきしてきたばっかりなのになあ、どうしたんだろう?」
 昇の尿意は本物だった。

「少しフラフラしているみたいですから、一緒について行きましょうか?」
 ウェートレスの態度に微妙な変化があった様に、昇には感じられた。
「いや、まだまだ大丈夫。ウィ〜、ヒック! こうなったら、出す物を出してから、ボトル一本開けちゃうぞ!」
 昇は三杯目のワインを一口グイッと飲んでから、ウェートレスの援助を振り切ってふら付きながらも、一人でト
イレに歩いて行った。

 かなり酔っていて、意識もやや遠くなって来ていたが、思考力だけはちゃんとしていた。酒に酔っ払いながら
の必死の演技だった。
『これだけ酔っていれば、女子トイレに入っても、多少の言い訳は出来る! チャンスは今だ! 今しかない!』
 昇は気付かれない様に、さっきから一人もトイレに行っていない事を確認していたのだ。幸いにもトイレの入り
口はレストランの席からは見えない様な位置にある。トイレに立った事は分かっても、男女のどちらに入ったか
までは分からないのだ。

 昇は席の方から見えない位置に来ると、小走りに女子トイレに入ってみた。駄目だったら、直ぐに男子トイレ
に入り直す積りだった。
 女子トイレと男子トイレとは微妙に作りが違う。左側に個室が五つほど並んでいたが、思っていた通り、いや、
それ以上に都合が良かったのは、やや高い位置にはあるが、右側が中位の大きさの窓になっていた事だった。
しかも直ぐ側に立木の陰が見えている。昇は思い切って窓を開けてみた。鍵はハンドル式の簡単な物だったの
で難なく開いた。

『山の上り斜面になっているんだ! 兎に角逃げよう!』
 昇は尿意すら忘れて、勢いをつけて窓のサンに手を掛けて、少し高い所にある窓の敷居によじ登る感じで這
い上がり、窓を閉めてから二メートル位下の、緩やかな山の斜面に飛び降りた。窓の直下はコンクリートで固め
てある。

「ううっ!!」
 怪我はしなかったが、衝撃で足が痺れて三十秒ほどは歩き出せなかった。間も無くそれも治まって、後はもう
死に物狂いになって逃げ出した。人目に付かない様に、ぐるりと大きく回って、道路ではなく山の斜面を下へ下
へと降りて行ったのである。

 途中でどうしても小便をしたくなったので、一度だけ立ち止まって、用を済まし、またひたすら歩き続けた。麓ま
で降りた所で、うまい具合にバス停があった。バス停に貼ってある時刻表でバスの時間を見ると、あと十分ほど
で駅行きのバスが来るようである。

『ふうん、この路線だと、家に近い所までは行くな。そこで降りて十五分位歩けば三時位までには帰宅出来る。
良しそうしよう!』
 昇は汚れた服の泥などを払ってから、バス停に立って待っていた。無我夢中であった為に分からなかったの
だがあちこち擦りむいている。しかし大した怪我ではなかった。

 昇の後に、数人のどちらかと言えば年配の人達が並んだ。バスが来るまでの間、昇は今日の出来事を思い
出していた。
『それにしても、あのワイン、たった二杯であそこまで酔うのはおかしいと思ったけど、多分あれは強い酒、ブラ
ンデーか何かを混ぜているなきっと! だから甘めにしてアルコールの強度が分からない様にしているんだ。
 多分俺の前にウェイターに連れて行かれた女性は、それが良く分からずに普通のワインの積りで飲んで、目
茶苦茶に酔ってしまったんだ。可哀想に今頃地獄の気分を味わっているんじゃないのかな……』

 昇は自分の事で精一杯で、犠牲になったであろう女性を見殺しにしてしまった事を悔やんだ。
『畜生、あいつ等、許して置けない! 親玉は先ず間違いなく、金森田だ! うううう、しかし俺は非力だ。今度
の事だって、証拠らしい証拠は何も無い。
 俺の思い過ごしだと言われればそれまでじゃないか! いっその事あいつ等の罠にはまれば良かったんじゃ
ないのか!』
 そこいら辺りまで考えた所でバスが来た。バスに乗って、続きを考えた。

『しかしそれは駄目だ。表に見える所でさえも、アルコールの度数の強いワインを使う位だ。見えない所でだった
ら、薬を使ったり、拷問に掛けたり、人質を取ったりしているかも知れない。
 そんな事になったら抵抗は不可能だ。やはり捕まらなかった事が正解だったんだ。だけどどうしてこう無力な
んだろう。相手が宗教団体だから、警察もそう簡単に動いてくれない。よほどしっかりした証拠が無ければ……。
あいつ等はそこの所を良く知っているんだ。表向きは如何にも通常の宗教活動に見せ掛けている。正体を暴く
為には、囮にでもならないと出来ないだろうけど、そういう者には、薬や拷問などの骨抜きにする方法を使う。
……ううむ、駄目か!』
 悔しくて仕方が無いのだが、今の所諦めるしかない様である。

 やがてバスは北岩高校前に着いた。高校の正門に近い所にあって、昇の自宅に戻るのには、そのまま高校
の敷地の中に入って、裏門から出れば近いのだが、敷地内に入る事は抵抗があって出来なかった。
 高校の教師の中には昇を良く知っている先生方も居て、ばったり道で出会ったりすると、昇よりも先生の方が
緊張するのである。

 その緊張感が不快で、昇はなるべく学校の近くには行きたくないのだった。フラワーグループのスーパー梅ノ
木店に勤めたくなかったのには、その様な理由もあったのである。
 バス賃、数百円を支払って、バスから降りると、後は通いなれた道、ぐるりと高校の周りを回って、自宅に戻る。
昇は裏門からは高校の現役時代には入った事が無かった。
 裏門が出来たのは、ほんの数年前の事だったのである。昇が学校を止めたのとほぼ同時期だったのであった。

 全く幸いな事に、見知った顔とは出会わずに昇は帰宅出来た。午後三時少し過ぎていた。鍵を開けて家に
入り、直ぐ風呂を沸かして、入った。幾分大きめの傷跡には、絆創膏を貼って、誤魔化した。それから自室の
ベットに寝転がりながら、もう一度今日の出来事を思い出してみた。

『先ずあれだ、山の中腹にあんな建物が何時の間に出来ていたんだろう? 麓からは殆ど見えなかったよな?
多分あれか、背の高い立木があって見え難かったんだな。最初から見えない様に作ったんだろう。
 しかし、極秘の内に建てたんだろうね。うーむ、役所のお偉いさんも絡んでいるか? くそ、何から何まで、金
森田が仕組んでいるんじゃないのか!
 今日の様な罠に市長とか市会議員とかがはまったらお仕舞だものな。奴等の思い通りに操られてしまう。警
察、裁判官、弁護士だって危ないかも知れない。色仕掛けもあるだろうしな……。
 でも、鏡川キラ星は? ふうん、それと他にもSH教の連中は沢山居ると思うけど、皆がこれに関与している
のかな?
 ふうむ、キラ星に聞けば分かるか? しかし彼女には聞けないよな。聞くとすればまた抱かなきゃ駄目だろう
し、あああ、それは辛い。じゃあ、どうすれば……』
 昇が考え込んでいると、
「ただ今!」
 母の帰宅の声がした。

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