夏 休 み 未 来 教 室 


                                              春 野 夢 男

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「ああ、お帰り。四十五分位に仕事に行くから」
 昇はドアを開けて顔だけ見せて話をした。側に寄ると、酒の臭いがばれて拙いと思った。念の為に水も飲んで
おいたので、殆ど酒臭さは感じられないのだが、何と無く気になったのだ。

「はいよ!」
 母は靴を脱いで、廊下に上がろうとしていた所だった。昇の態度に、
『何があったのかしら?』
 と、異変に直ぐ気が付いたが、近頃は本人が言わない限りは、敢えて追求はしない事にしていたのだった。

 昇はもう一度ベットに寝転がって更に考え続ける。
『俺はSH教の連中に追われる事になるのか? 今は必ず防犯ビデオで撮影されている。それを分析すれば、
俺が分かるかな?
 俺をもし知っている奴が居たとすれば? 俺は名乗っていない。だからそう簡単には分からないだろうけど、
遅かれ早かれ分かるんじゃないのかな? 母さん大丈夫かな? 父さんや妹の夏江にまで累が及ぶかも知れ
ない!』
 昇は家族への迷惑を考えた。

『ああああ、無力! 力が欲しい! ううう、今のままではやられる! 俺の思い過ごしだったら良いのに!』
 昇は何度も思い過ごしである事を願った。しかし無料の食事が豪華過ぎた事は、その希望をあっさりと打消
すのに十分なインパクトがあったのだ。
『くそう、何とか回避する方法は無いのか! 家族に全てを話す? それでどうなる? 海外にでも逃げられる
んだったら良いけどね……』
 万事休すの思いで昇は仕事場であるスーパーに、着替えてから向かった。今日着ていた物はやはりかなり汚
れが酷く、しかも一部破れている。一応母親には転んで擦りむいたと言って置いた。

「お早う御座います、えっと、今晩は、かな?」
「お早う御座います、で良いのよ」
 大沢木雪美がぶっきら棒に言った。彼女は今日は珍しく自分の希望で深夜番の担当になった様である。他
のアルバイトの都合があるらしい。

『雪美さんだとやり難いな……』
 昇はそう感じたが、拒否も出来ないので一晩付き合う事になる。深夜番は午後九時以降は原則二人のチェッ
カーだけが残る事になる。
 仕事が終ると、後片付けをして戸締りをしてから帰る事になるので、実際に帰宅するのは午前一時以降であ
る。勿論その分給与に深夜手当てが付くので、時間的に余裕のある者は、深夜番を希望する事も多い。

 雪美の場合には今日に限ってもう一つのアルバイト先の酒場が休みだった。いや、本当はつい先日店が潰
れてしまったのである。何と無く言いそびれて、メグミ等には休みだと言ってある。
 他のアルバイト先が見つかるまで、少しでも多く稼いで置く為に急遽そうしたのである。本来は別のおばさん
が希望していたのだが、用事が出来て、代わりの者を探していたので、渡りに船だった。

 午後九時を過ぎるとめっきり客足が落ちて来る。客が来ないと、どうしても何か話したくなる。しかし二人は、
かなり長い時間無言だった。昇は雪美にどうやら良く思われていないらしいと分かって来たので、後輩であるこ
ともあって、ひたすら時の過ぎるのを待った。しかしこの様な場合の時の流れは遅い。亀の歩みどころか、カタ
ツムリ並である。

 相当長く無言を通したと思っても、実際には二十分にも満たないのだった。先に音を上げたのは雪美の方で
ある。
「貴方ねえ、何か言いなさいよ。何かこう不気味よ」
「言っても良いんですか?」
 昇には多少からかう気分があった。 

「良いのよ。……でもあれよ、変な事をしようとしても、防犯カメラが回っていますからね」
 雪美は釘を刺した積りである。
「いやあ、危ないのは俺の方じゃないのかな? 近頃じゃ逆セクハラもあるらしいですよ。私のあそこを舐めな
さい、そうしないとただじゃ済まないわよ、とか女性が男性を脅す事があるらしいですよ」
 昇は黙って言われっぱなしにはしない。

「まさか私がそんな事を言う訳無いでしょう。あんた、私に喧嘩売ってるの!」
 雪美は怒鳴った。
「防犯カメラが回っているんですから、あんまり、そうカッカしない方が良いんじゃないんですか?」
 昇はいたって冷静だった。

「もう、もっと楽しい話題は無いの! ああ、いらっしゃいませ」
 雪美が怒りをぶつけようとした瞬間にお客が何人か店に入って来た。暫し休戦である。
「どうも有り難う御座いました!」
 十分ほどでまた誰も居なくなると、口喧嘩再開である。

「羨ましいわね、彼女が沢山居て。私には彼氏なんていないのよ。生活にゆとりのある人は良いわね〜」
 思いっきり皮肉な言い方を雪美はした。
「……………………」
 昇は何も答えなかった。
「ふふん、図星ね! ふふふん!」
 雪美は得意げに鼻を鳴らした。昇はそこから徹底的に沈黙を通した。お客に対する時と仕事上の会話を除
けば一切何も言わなかった。何を言っても馬鹿にされるか、皮肉られる事が分かっていたからだった。

 深夜十一時過ぎ。客足はますます少ない。
「な、何か言いなさいよ!」
 不気味な沈黙を続ける昇にいらいらして雪美は怒鳴ったが、昇は固く口を閉ざしたままだった。
「もう、あんたなんかと一緒にやっていられないわね。この次からは別の人にして貰うわ!」
 時々そんな風に怒鳴るのだが、何を言われても昇は一切喋らなかった。

 特に十一時半過ぎてから十二時終了まで一人のお客も来なかった時には、雪美の怒りは頂点に達していた。
何度も何度も昇に悪口雑言を浴びせ続けた。それが祟って数日後に彼女は解雇される事になる。
 それこそ一部始終が防犯カメラにバッチリ映っていた。近年言葉の暴力に対しても厳しい態度を取る傾向が
企業の間にも現れて来たのであるが、フラワーグループでもそれは例外ではなかった。
 防犯カメラは外敵から身を守る為だけにあるのではない事を、雪美は知っていた筈であるが、自らの怒りの
感情を抑える事の出来なかった、言わば自業自得の結果でもあった。

 こうしてスーパーでの初めての深夜番は、昇に取ってはある意味苦いものになったが、客とのトラブルは無
かったので、一応成功したと言えるだろう。しかし気の晴れる瞬間は当分有りそうも無かった。
『何時SH教が牙を向いて来るのかな? ああ、永遠に来なければ良いのに……』
 そう考えるとどうにも憂鬱だった。

 それでも翌日は久々の林果とのデートである。香澄の息の掛ったデートであるのが気掛かりだが、贅沢は
言っていられない。
『少なくとも林果とは会える筈だ。それだけを楽しみに時を過ごそう……』
 四月三十日月曜日、午前二時過ぎ頃、昇は眠りの世界に入って行った。

「昇、ご飯よ!」
 母、水江の声。
「ハーーーイ!!」
 憂鬱な気分とは裏腹に、昇は陽気な位の声で返事をした。
「ふふふふ、休みの日だと元気が良いわね」
 水江は単純に考えていた。服が破れていたのは、元気の証(あかし)、位にしか感じていなかったのだった。

 例によって母親を送り出すと、適当に自己流で運動をして、体を絞ってから、風呂に入り、一応彼なりにめか
し込んで、駅前の『デ・アリータ』へバスで行った。
 バスの便の都合で少々早く着いたので、少し図書館で時間を潰してから約束の十一時五分位前に、最上階
の高級レストラン『ジュピター』の前で待った。

『ひょっとして、香澄に騙されたのかも知れないぞ!』
 そうも思いながら、十一時過ぎまで待っていた。幸いな事に、嘘ではなかった。青白く幾らかやつれた感じで
林果が現れたのだ。

「り、林果!!」
「……、昇!!」
 二人は走り寄って抱き合い、そして人目もはばからずキスをした。熱烈なキスだった。周囲から非難の声も
上がる。驚きの声も上がる。妬みや嫉妬の声、舌打の音も聞こえた。しかし二人は怖くなかった。
 やっと会えたのだ。しかも次に何時会えるか、何の保証も無い。もし二人きりだったら、性行為に及んでいた
だろうが、それは流石に堪えた。十数分のキスの後、二人は固く手を繋いでレストランに入って行った。

 午前十一時二十分過ぎの事だった。窓際の良い席は既に満杯だった。仕方無しに入り口から何と無くだった
が、遠い席を選んで座った。ウェートレスの案内する席は替えて貰った。
「ご注文は?」
 ウェートレスは二人のキスを知っているからなのか、ちょっと不機嫌な感じだった。

「今日は是非、私に奢らせて!」
 林果は直ぐそう言った。
「あ、ああ、じゃあ、そうしよう」
 昇は商品券があるので、自分が奢ろうかとも思ったのだが、ここ『ジュピター』ではそれでも通用しないほど、
値段が張るので、林果に任せる事にした。

「それじゃあ、スペシャルコース二人前でお願いします」
 林果が慣れた感じで言った。
「かしこまりました。スペシャルコース、二人前で御座いますね」
「はい」
 林果はじっと昇を見詰めて言った。
『早く向こうへ行ってよ!』
 ウェートレスにはそう感じられた。

 昇も林果をじっと見詰めながら、テーブルの上で両手を両手で包み込む様に握り締めていた。
「うううっ!」
 邪魔にされた感じのウェートレスは妬ましさで、ちょっと泣き出しそうになってその場を去った。それほどまで
に林果と昇とは、二人だけの世界に入り込んでいたのである。

「ああああ、会いたかった!」
「私も!」
 昇と林果とは、先ず、お互いの気持ちを切々と語り始めたのである。

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