夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
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「そ、その、自殺はしません。ただ少し考えさせて下さい。ああ、もう時間です。申し訳ありませんが、両腕の機
能チェックは、他の研究員にやって貰います。私はちょっと今は無理です。それではこれで、失礼致します」
渡米平は真っ青な顔をして手術室を出て行った。殆ど入れ替わりの様に他の研究員達が入って来て、両腕
の機能試験を開始した。
実際に注射器で、腕からの採血を両腕共にやってみたり、脈拍を測ってみたり、血圧測定までやってみたり
した。それ以外にも色々あって、機能試験には二時間ほど掛った。
そのあと、最後の仕上げとして実際に泳いでみて、不都合が無いかどうかを調べる。それと合わせて、泳ぎ
方に人間として不自然な部分が無いかのチェックも行う。
「前から気になっていたのですが、もし、息継ぎ無しだったら、どの位で泳げますかね?」
若い研究員の一人が何気なく言った。
「うーん、そうだな。一度私もやってみたかったんだけどね。じゃあ、やってみようか?」
実に気軽に決った。
「ヨーイ、スタート!」
言いだしっぺの研究員の合図で、全身を覆う感じの競技用の水泳パンツに身を包んだソード・月岡は、慣れ
た感じでプールに飛び込んだ。
「す、凄い! 息継ぎをしなければ、こんなに速いんだ! これだったら短距離でも行けますよ!」
多くの研究者達は目を見張った。ソードの泳ぎは元々彼に水泳のセンスがある事を物語っている様だった。
水泳に向いた肉体を持って生まれていれば、きっと一流の水泳選手になったであろう事を誰もが信じた。実
際には背も低かったし、手の平も小さかったので無理ではあったが、もしそれらのハンディを計算に入れる水
泳大会があったなら、恐らく彼は世界チャンピオンになっていたのだろう。
「物凄い記録だ! 十分切っている! 九分五十八秒! 無、無理はしていないですよね?」
研究員達は記録を伸ばす為に無理をしているのかどうか気になった。
「いや、全然。わりと楽に泳いでこの記録ですよ。頑張れば九分切れると思いますけど、無理はしない主義な
のでね」
「そうですか。それじゃあ、今度は息継ぎありで、普通にやりましょう。そのう、泳いだ後に平然としていてはい
けませんよ」
「はははは、そりゃ勿論ですよ。今は試し泳ぎですからね。じゃあ、本番の練習、行きますよ。記録をきっちり
取って下さい!」
それから数時間、人間らしい自然な泳ぎの特訓を続けた。その日の行事はそれで最後である。
研究員達はその後、皆で酒を飲んだり、デートしたり、家庭での寛ぎの一時を過ごすのであるが、ソード・月
岡は完全に孤独だった。
サイボーグである彼には食事と言うものが無い。異性との交流はかなり勧められたが、情欲が高まって、危
険だと思っているので、断り続けていた。
『息継ぎをしなければ、短距離でも世界チャンプになれる……。金森田も水泳は得意だ。うーむ、それだけで
はやはりまだあの男を確実に仕留められそうも無いな。しかし随分腕の性能が上がったな。
さっきの驚異的な記録は、腕力が格段に向上したからの記録でもある。この調子だったら何か技を身に付け
れば、金森田に勝てる様になるのではないのか?』
たった一人の自分の部屋でソードは寛ぎながら、近い将来、必ずやって来るであろう金森田との殺し合いに
勝つ方法を考えていた。
『それにしても、一段と滑らかになった腕の動きは、歯車などの機械を殆ど無くして、細長い形状記憶合金を
より合わせて作った、人工の筋肉のお陰だろうな。
ふう、理論的に前々から考えられてはいたけど、ここではもう実用段階なのだからな、恐れ入るよな。今回は
腕の筋肉だけだったけど、世界選手権の前までには、脚の方も人工筋肉に付け替える事になる様だな。
この調子だと、脚に人工の筋肉を付けた時点だったら、腕力的にはほぼ金森田と同じ位になる。その上に
何か技があれば、年令のハンディや、直ぐ疲れてしまう生身の体の事を考えると、争っても百パーセント俺が
勝てる!
しかし、技ねえ……。仮に学ぶとしても、極秘に学ぶ必要があるな。果たして金森田に知られずにそんな事が
出来るかな? 俺の信奉者を使うか?
俺に惚れているらしい女を使うのか? しかしそれは拙い。女が側に寄って来ただけで変になりそうだから
な。まあ、焦らない、焦らない! もう少し時を待とう!』
金森田を殺す事を視野に入れ始めたソードは、しかし絶対に失敗があってはならないと、暫くの間は自重す
る事にした。
『万に一つも失敗したら、あの男は、俺の家族や、林果を血祭りに上げるのに違いないからな。それだけはあっ
てはならない事だ、絶対に!』
ソードは家族や林果の事を完全に忘れた訳ではない。彼の僅かな裏切りの気配が彼らの命に関わってくる
事を十分に知っている。だからこそ表面的には忘れて、ひたすら金森田に協力して来たのである。
しかし最後の日が目前に迫って来た事もまた事実である。殺すか殺されるか二つに一つの選択しかないの
である。それらの事を肝に銘じて、ソードは眠りに付いたのだった。
それから何日か経って、いよいよ全日本水泳大会が始まった。優勝すれば無条件で世界大会に派遣される。
正式の大会なので、予選、準決勝、決勝の三試合戦わなくてはならない。
ソード・月岡は男子千五百メートル自由形の優勝候補の一人だった。しかし他にも何人か有力候補が居て、
彼の予想順位は三着位であった。
大会は首都近郊の都市にある屋内プールで、三日に渡って行われる。初日は開会式と殆どの競技の予選
だった。男子千五百メートル自由形にはスター選手がいた。
「何と言っても浪野森義久(なみのもりよしひさ)君でしょう、世界記録に後一歩まで迫っているのですから」
テレビの放送で解説者はそんなことを言っていたが、
「ダークホース的な存在ですが、ソード・月岡という選手はどうでしょうか?」
アナウンサーがそう言うと、
「彼の泳ぎは余り見た事がありませんので、何とも言えませんが、年令が二十八ですか?」
「はい、そう聞いています」
「それじゃあ、無理でしょう。何と言っても浪野森君はまだ十八才ですよ。今が伸び盛りですからね。ひょっとす
るとこの大会で、日本新記録どころか、世界新記録が出るかも知れませんよ。
ソード君の噂は私も聞いていますが、頑張っても二位という所じゃないでしょうか?」
解説者は最も常識的な事を言った。
「そうでしょうね。しかし、記録が今から楽しみですね。ソード選手が頑張って、浪野森選手を追い詰める様な事
があれば、更に素晴しい記録が生まれるかも知れませんね」
アナウンサーは解説者に調子を合わせつつ、ソードを持ち上げる様な上手い言い方をした。
「はははは、それは少し買い被り過ぎじゃないんですか? 昨日今日出て来た選手に、そこまで期待するのは、
逆にプレッシャーになりますよ」
解説者は内心ムッとして言った。ソードに肩入れするアナウンサーの態度が気に入らなかった様である。
「プレッシャーですか、なるほど、それもそうですね。さあ、いよいよ予選が始まります。いきなり噂のソード選手
が登場です。未公認の日本記録を持っているのですが、公式の大会ではこれと言った実績がありませんので、
ランク的には最下位扱いとなります。第八コースの彼の泳ぎが注目されます」
会場では選手の名前がコールされいよいよ競技開始である。
「位置について、用意、ビーーーッ!」
号砲ではなくビープ音が発せられて、一斉にプールに飛び込む。第一コースから第八コースまで八人いたが、
予想通り、ソードがダントツに速かった。二位以下に一往復以上の差を付けて圧勝した。
「す、凄い記録が出ました。これは日本新記録です! つい先月出たばかりの浪野森選手の記録を約一秒縮
めました。これは大変な事になりました。世界新記録まであと一秒もありません!」
「オオオーーーーッ!!」
会場にどよめきが起った。
早速アナウンサーが駆け寄ってソードに現在の心境を聞いたのだが、彼にとって拙い事があった。それは
そのアナウンサーが若く美しい女性だったことである。
「おめでとう御座います。日本新記録ですよ。今のお気持をお聞かせ下さい!」
「あああ、その、済みません、まだ明日もありますので、今日はちょっと失礼します」
かなり慌てて走ってその場から去って行った。
「いや、その、何かシャイな方ですね。恥ずかしそうにして帰ってしまわれました。お話を聞けなくてどうも、申し
訳ありません」
女性アナウンサーは何か失敗した様な感じで謝った。しかし幸か不幸か、そのソードの態度が逆に好意的に
テレビを見ていた視聴者に受け止められたのだった。
「さて、予選最終四組目ですが、注目の高校生、浪野森選手が出場します。第四コースです。勿論彼はソード
選手が自分の記録を破った事を聞いておりますでしょうから、それが彼の泳ぎにどういう影響を与えたのでしょ
うか。予選ではありますが大変注目される一戦です!」
アナウンサーはかなり興奮して実況を始めた。予選としては異例の事である。
「位置について、用意、ビーーーッ!」
毎度のビープ音で、選手は一斉にプールに飛び込んだ。ここでも他を圧して、第四コースの浪野森選手が完
勝した。やはり二位以下を一往復以上引き離していた。問題はタイムである。
「あああ、残念ながら、日本新記録は出ませんでした。二秒遅れました。これはプレッシャーなのかそれとも力
の温存か、明後日の決勝が何とも楽しみになって参りました!」
アナウンサーは気分良くその日のテレビ中継を終える事が出来たのだった。