夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
8
「ここが大切な所なのですが、私は人間は物質だと言いましたが、仮にそうで無いとすれば、それが事実だとす
れば、私が何を言おうと物質ではない訳です。
神様がいない云々(うんぬん)も同じです。実際にいるかいないかのどちらかなのであって、私が神が存在し
ないと言ったから神が消え、私が存在すると言えば、神が現れると言うものではないでしょう? つまりどちら
の説を唱えたとしても正当な根拠があるのならば、問題になる事は全く無いのですよ、違いますか?」
賢三の指摘は鋭くしかも当然の事であった。
「ええと、それは、確かに……」
当たり前の指摘に、しかし信念は戸惑った。
「まあ、あの女子大生と思われる人が意識的に嘘を言ったとは思えませんが、形としては嘘を言った事になる
訳です。
二重の嘘と言うのは、一つは物質を殊更に卑しめ、更にもう一つは、確たる証拠も無いのに、人間の物質
説、私が唱える説を頭から否定したことです。はははは、まあそう固く考える事も無いのですがね」
賢三は余裕を見せて笑った。
「ふうむ、……ああ、残念ですがそろそろ時間です。もう少し聞いて居たかったのですが、またいずれ機会を
見てという事で、では、失礼致します。あ、あの、送らなくても結構ですから」
信念は名残惜しそうにしながら席を立った。
「今日はどうもご馳走様でした。本当に有難う御座いました」
「あの、有難う御座いました。カレー、美味しかったです。その、さよなら」
林果と昇は立ち上がって礼を言い、軽く頭を下げた。
「いやー、残念ですな、しかし用事があるのでは仕方が無い。どうも今日は有難う御座いました」
講義をした立場の賢三だったが、やはり自分も立ち上がって頭を下げて、受講の礼を言った。
「お二人、なるべく喧嘩をしない様にね、はははは、じゃあ失礼します」
信念は笑いながら教室を後にしたのだった。
「さてそれでは、更に突っ込んだ内容にして行きたいのですが、ここまでで何か質問が御座いますか、ふう、夕
凪(ゆうなぎ)と言うのかな、風が止んで、何だかかえって暑くなった様な気がしますねえ」
賢三はよれよれのハンカチで汗を拭きながら言った。
「ええと、宝本さんは人間を物質だと言いましたけど、昨日こんな体験をしたんですけど……」
昇は昨日見た不思議な夢の事を話した。
「ええっ! それって、魂が肉体から抜け出したんじゃないの?」
林果は怖そうに顔をしかめながら言った。
「なるほどねえ、でもそれは夢として説明出来ますね。ただその種の体験談は大抵尾ひれが付いて、知らず知
らずの内に本人が記憶の修正なんかをする事があるので注意が必要だと思います。
それにこれからお話しする事は、良く理解されれば、そんな事位ではびくともしない事が分かる筈です。では、
ロボットの定義の所に一旦戻って、お話を続けることに致しましょう」
そう言いながら、しかし賢三は腕時計を見た。
「もうそろそろ午後五時になるところですが、自宅に連絡を入れなくても大丈夫ですか?」
ちょっと心配そうに賢三は言った。
「私はもう、電話して置きましたから大丈夫です。ただ最終の講義まではちょっと……」
林果は最終的に午後九時まで掛る事に不安を覗かせた。
「ああ、俺も、一応連絡してあるから大丈夫だけど。ただ九時までだとちょっと遅くなるよな、確かに」
昇はそう言ったが、
『待てよ、こいつは何処で電話したんだ?』
林果の電話にちょっと疑問を感じた。しかし、
『ははーん、ピーコックの中でトイレに行ったけど、その時かもしれないな。なるほどね……』
一応そう考えて納得した。
「うーむ、そうですよねえ。本当は一般の社会人向きの講座だったので、夜九時までにしたんです。君達の様な
若い人を想定していなかった。じゃあ、今回は午後六時で終了と致しましょう。
それでも過去一番の長さと人員ですからね。私としては大いに満足なのですが、ここからは触(さわ)りの部分
をお話してお開きと致しましょう」
賢三は満足気に微笑みながら講義を続けた。
「さて、私はロボットには、自分というものが無いと言いました。難しい言い方をすれば、『ロボットはその機能に
おいて生命体と同等の働きをするが、基本的に他存在の集合体である』ということになります。
まあ平たく言えば、先に言った様に、自分が無いということなのですが、それでは自分とは何かという、重大な
問題が生じます。
そこの所が明確でないとロボットの定義も曖昧なものになってしまいます。そこで君達に質問ですが、自分と
は何でしょうか?」
「自分とは、哲学的に言えば、『自存在』、即ち『意識』の事であると聞いています。それで宜しいんでしょうか?」
林果は間髪を入れずに答えた。
「いや、桜山さん、良く勉強していますね。一般的にはそれで良いでしょう。しかしその考え方は不十分だと私は
考えています。
ええと、さっき林谷君が、奇妙な夢について言いましたよね。それが夢であるかどうかの議論はさておいて、で
は夢を見るのは誰ですか?」
賢三はかなり真剣な眼差しで言った。いよいよ講義が佳境に入ったのだろう。
「それは自分です、えっと、あれ?」
即答しながら、林果は奇妙な事に気が付いた。
「そう、夢を見るのは他人ではなく、常に自分です。夢を見ている自分が存在しているのではありませんか? し
かし夢を見ている時間は、眠っている状態であって、少なくとも意識があるとは言わない。自存在が意識と定義
されるのは誤りではありませんか?」
賢三は林果を見ながら言った。
「で、で、でも、本にはそう書いてありました。夢については書いてなかった」
林果はザワザワする『何か』を感じた。
「そうですね。しかし、まだ不十分なのですよ」
賢三はいよいよ核心に触れ始めていた。
「あのう、夢も見ていない、深い眠りの事じゃないんですか?」
賢三の気持に動かされたのだろうか、何気なく昇は言った。
「そう、それです。私の見込み通り、林谷君はなかなか鋭い。その深い眠りの時間は、その何十分か何時間か
の間、自分は存在しないのかな?」
「ええと、それは、その、……」
林果には答えられなかった。
「何も感じなくても、自分はあるんだ。でなきゃ、目を覚まさない筈だ!」
昇は思わず叫んだ。
「そう、そう考えざるを得ないのですよ。もう少し詳しく言えば、基本的に自分というものがあり、その事を認識す
る何らかの装置があって、それが働いている状態、その状態が一般的に言えば意識のある状態と言う事にな
る。
ただしその状態にはレベルがあって、そのレベルが低くなると、夢を見ている状態となり、更に低くなると、何
も感じない状態になる。
その行き着く先に、生命の定義があると私は考えています。現在生物学では生命の定義はなされていないと
聞いています。私に言わせればそれは当然です。
先ほどから言っている様に、生命の定義には、自存在の考え方が不可欠の要素だからです。ただそれは恐
ろしく難しい。おっと、そろそろ時間ですね。
では最後に一つだけ、先ほどから言っている様に、何も感じなくても自分というものがあるとすると、その考え
方は遂には生死を越える可能性を秘めています。
ここで終るのは少し残念な気もしますが、ここから先は君達の様な若い人に研究して貰えれば良いなあと思っ
ている訳です。それでは『夏休み未来教室』をこれで終了します。ご清聴有難う御座いました」
賢三は立ち上がって深々と頭を下げた。慌てて、林果と昇も立って、
「どうも有り難う御座いました」
と、頭をかなり深く下げた。
「ああ、ところで、君達、帰りは歩き? 自転車とかは無い様だけど?」
「俺は家から、散歩がてら歩いて来ました。一時間ちょっと掛ります」
昇が言うと、
「私も一時間位掛けて歩いて来ました。運動不足の解消の為です。昨日まで一日十六時間位勉強していて、
殆ど家に閉じ篭(こも)っていましたから」
続けて、林果も言った。
『十六時間! 流石(さすが)に全国のトップレベルだな。半端な水準じゃないぞ……』
昇はまた林果をほんの少し見直した。
「そうか、そうするとお家に着く頃には暗くなっちゃうね。私もこれから家に帰る所だし、どうだろう、送るから車
に乗っていかないか? ボロ車で恐縮なんだけど。お家はどっちの方?」
賢三は気軽に言った。
「ええと、俺は梅ノ木団地です。北岩高校に近い所にある、スーパーの近くなんですけど。一応自宅です。」
「ええっ、じゃあ、家の近くです。私は梅ノ木マンションですから」
昇と林果は信じられないといった感じで思わず顔を見合わせた。
「おやおや、これは奇遇ですね。私は梅ノ木マンションの二軒隣に住んでいるんですよ。驚きましたね、三人と
も直ぐ近くに住んでいたんですね。
はははは、悪い事を言ってしまったかな、近くに建った高層マンションというのは梅ノ木マンションの事でね。
あんな住宅地に十五階建てのマンションなんですから、風通しが悪くなったと言ってしまってね」
賢三はちょっと恐縮気味に言った。
「す、済みません、その、十五階に住んでいるんです」
「十五階? じゃあひょっとすると、チェリーズグループの会長のお嬢さん、いや、お孫さんかな? 一人で住ん
でいるという噂を聞いたことがありますよ」
「ああ、その噂だったら、俺も母さんから聞いたことがある」
「ち、違います。身の回りの世話をしてくれるお手伝いさんと一緒に暮らしています。一人ではありませんから。
それに会長の孫ではありません。
グループの中の会社の、その、社長の娘です。あの、余り特別な目で見ないで下さい。……、お言葉に甘え
て、車に乗せて頂いても宜しいでしょうか?」
林果は不正確な噂にはきっちり反論したが、車に乗せて貰う事に関しては恐縮気味に言った。