夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
81
隣接した屋内スケートリンクまでは徒歩五分程度。放送の収録は午後五時からだが、スタンバイの都合も
あって、午後四時にはリンクに行く必要があった。ソードの熟睡のお陰もあってか、時間はギリギリだった。
「パチ、パチ、パチ、パチ、……」
ソードが会場に着くと何故か拍手が沸き起こった。
「いやあ、報告は受けていますよ。兎に角上達が早くて、皆あっと驚いています。今日はもう番組始まって以来
の大変なスポーツシーンが見られそうだと、今の拍手はその期待感の現れですよ。最早チャレンジャーでは
なくチャンピオンと言うべきでしょう!」
興奮気味にプロデューサーの心地貝重春(しげはる)は言った。
会場には既に、応援隊のエキストラやチアガール、ブラスバンドなどの人達が、左右に分かれてしきりに応援
の練習をしていて、頗る賑やかだった。
右のソードの応援隊ばかりからではなく、左も含めて両方からソードに声援があったのだった。
「聞いていると思いますが、最初に黄味麻呂ユウカリ選手と一戦を交えて貰います。実は色々考えさせて貰っ
たのですが、流石に一万メートルの連荘(れんちゃん)はきついでしょうから、なるべく早く、ユウカリ選手とは
戦って貰いたいのですが宜しいでしょうか? その為のスタンバイは既に出来上っております」
「ああ、なるほど。それももっともですね。後で挑戦者の真打が登場するにしても、よれよれのチャンピオンに
勝っても自慢にはならないでしょうからね。
ただ、最初から少し変だとは思いましたがね、こっちが一度に二人と対戦するんじゃ、二回目は負けるのに
決っている」
ソードは多少皮肉を込めて言った。本当はチャンピオンをよれよれにする積りだったのだろうと、誰にでも想
像が付くからである。
「あはははは、きついですね。まあ、その、色々と事情が御座いまして。はははは、じゃあ、服を着替えて頂い
て、早速勝負と行きましょうよ」
プロデューサーの心地貝は汗を掻きながら、スタンバイをソードに頼んだ。陰で大物達が暗躍しているのだ
ろう。断る事が出来ずに承知したものの、今のままでは視聴者から袋叩きにされかねないので、少し余分に休
憩時間を取らせる事で、幾らかでも自分に対する非難をかわそうという狙いの様だった。
ソードが着替えて来ると、既に真っ赤なコスチュームに身を包んだユウカリがいた。身長は188センチ。ソー
ドは173センチなので、十五センチの差がある。
素人目にはソードに勝ち目は無さそうであるが、ユウカリもソードの記録を聞いているのだろう、凄い形相に
なっている。
「さあ、いよいよ世紀の瞬間がやって参りました。今回は例外中の例外。何しろ、つい一週間前まではど素人
だった、ソード・月岡選手が今現在、国体選手クラスのタイムにまで成長してしまったのですから。
そこで今回に限り、ソード選手に、元女子世界チャンピオンの、黄味麻呂ユウカリ選手と戦って貰うのですが、
もしここでも勝利を収めた場合、特別に現役の全日本のトップスケーターと、競技して頂く事になりました。
恐らくこの様な事は、今後二度とは無い事だと思っております。それではスターターは公平を期しまして、当
番組のレギュラー陣の中でも、特に美人だと本人だけが言っている、大橋メグミさんにして頂く事に致しまし
た。
両選手ともご異議は御座いませんか? まあ、異議はあっても受け付けませんけどね、はははは。それでは
スタートラインの方へどうぞ。メグミさん宜しくお願いします!!」
司会者のコンポンもやたら張り切っている。それはそうだろう、何か凄い事が起きそうなそんな予感もあるか
らである。
「フレッ、フレッ、ソード! フレッ、フレッ、ソード!」
「フレッ、フレッ、ユウカリ! フレッ、フレッ、ユウカリ!」
両者に対する応援合戦も激しさを増して来た所で、
「位置について、……用意、……パンッ!」
メグミのスターターで両者は一斉にスタートした。ユウカリは全力で滑って行く。ソードは悠々とその後につい
て行く。どうやら二戦目に備えて、力を温存する積りの様である。
ユウカリは彼女としては目一杯のスピードで二十周目位までやって来た。しかしそこであっさりとソードは追
い抜いて行った。ユウカリの記録は十五分台。彼女としては自己最高をマークしたし、恐らくはこれが女子の
世界新記録なのだろう。しかしソードは余裕を持って十四分台で滑り終えたのである。
「ウオオオオーーーーーッ!!」
勝ったソードにも、負けたユウカリにも大声援が送られたのだった。しかし勝負の後の二人の態度は対照的
だった。
「ううううっ……」
ユウカリは大粒の涙を零して泣いた。
「そ、そんなに泣かないで下さいよ。未公認ですし、はっきりはしないけれども、一応世界新記録なんですから」
司会のコンポン君がしきりに慰めた。しかし泣き止まずに、結局はスタッフに抱かかえられるようにして会場
を去って行った。
「それにしても凄いですね、何か余裕がありましたよ。余り疲れて居なさそうですね?」
「もう一戦ありますからね。次はどなたが出て来るんでしょうか? まあ、誰であっても、いい勝負になると思っ
ていますけどね」
ソードは謙遜気味に言ったが、自信に溢れている。背後に青石の影響がありそうなので、少し挑戦的な態度
を匂わせたのだ。
「次にどなたが出て来るのか、私も聞いておりません。しかし今のお言葉、我に勝算ありと見ましたが、違いま
しょうか?」
コンポンはソードから勝利の確約を聞き出そうとした。
「勝敗は時の運ですからね。何とも言えませんね。ただユウカリ選手はどうしてあんなに泣くのですかね。私が
そんなに嫌いなんですかねえ……」
ソードにとってはそっちの方が気になる事だった。その後暫く休憩時間に入った。一時間ほど休んで、午後
五時半に再開する事になった。
「それじゃあ一休みして、ああ、皆で一緒にコーヒーブレイクにしようか?」
ソードは付き人達に言ったが、彼らにとっては意外な事だった。
「あのう、休まれなくとも大丈夫ですか?」
栄太郎が言った。スポーツに詳しい彼にしてみれば、余裕があったとはいえ、一万メートルを滑った直後であ
る。疲れていない筈が無いのだ。
「だからそのコーヒーブレイクが休憩なんですよ。何時もの私だと眠るところですが、今は何故だか眠くないん
ですよ。そんな時に無理に眠ろうとするとろくな事がありません。ええとそうですね、ここにも喫茶店がありまし
たよね?」
ソードはここで奢ろうと思っていた。お昼に出来なかったことである。
「はい、その名もずばり、『アイス』という喫茶店があります。アイスコーヒーが美味しいとか、店の前に書いて
貼ってありました」
記憶力の良いところを宗徳は披露した。
「じゃあ、そこにしようよ」
ソードは即決した。三人の付き人達はもっと本格的にソードに休んで欲しかったのだが、結局黙って従うしか
なかった。喫茶店に入ると、美味しいというアイスコーヒーを全員が頼んだ。
「私の奢りですからね、昼間には出来なかったからね」
「先生、そんな事水臭いですよ。でも、折角ですからご馳走になります。うーん、本当に美味しい!」
ソードも美味しそうに飲んでみせた。ストローを使う方が、幾らか楽である。
『気を緩めると、グラスをひっくり返しそうだな。慎重に、慎重に……』
注意深くアイスコーヒーを飲みながらも、ゆったりとソードはお昼の出来事について話し始めた。
「しかし今日のお昼、カスミさんとの話を聞いていたでしょう? どう思われましたか?」
「神の存在に関してですね?」
宗徳は素早く言った。
「私の様な凡人にはもう一つ良く分かりませんでした。『我は神なり、また魔なり』はSH教の教えではあります
が、神が超越的に存在するとはどういうことなのでしょうか?」
栄太郎が聞いた。
「ははははは、余り難しく考える事はありません。不思議な言い方になりますが、神は存在しないと言う人には
存在しないのです。しかし存在すると言う人には存在するのです。これが超越的存在です」
ソードはアイスコーヒーを無事に飲み終えて安心して言った。
「詭弁ではありませんか? あるとも言えるし、無いとも言える等と言うのでは、何も言っていないのと同じでは
ありませんか?」
宗徳は厳しく突っ込んで来る。だがソードが揺るぐ事は無かった。
「いいえ、それは宗徳君の考え違いと言うものですよ。少し難しいお話になりますが、君は数学は得意ですか?」
「はい、その少しは。でも大学は文系だったので高校時代は割と成績が良かったと言う程度ですけど」
「そうですか。ところで実数連続体(じっすうれんぞくたい)、という数学用語を知っていますか?」
「ええっ、な、何ですか、その、実数連何とかって」
数学に関して宗徳が分からない事は和寿も栄太郎も知らないことだった。
「はははは、それでは難し過ぎるかも知れませんから、全部省略して、兎に角その方面の数学の証明にある
のですよ。
『有るのか、無いのか』が問題になる、一つの問題があったとして、その証明が『有る』とも言えるし、『無い』
とも言える、そんな証明が実際にあるのです。
その証明は世界の数学界に衝撃を与えましたが、さっきから言っている、有るとも言えるし、無いとも言える
と言うことは、詭弁でも何でも無く、ちゃんと意味のある事だということです」
ソードのその言葉に三人は一度は唖然とした。それから強い尊敬の念が沸き起こって来たのだった。