夏 休 み 未 来 教 室 


                                              春 野 夢 男

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「し、しかし、神が存在する事を実証出来るのでしょうか?」
 宗徳は感動しながらも、理論家らしく尚も食い下がった。
「いい加減に止めないか! 神は超越的に存在する。それで良いじゃないか!」
 栄太郎が厳しくたしなめた。
「そうですよ。我等の目の前に神は居る。それで良いと思います」
 和寿はソードの言葉に感動しながら言った。

「はははは、もし実証出来るのだったら、それは普通に存在するということです。それでは並の人間と何も変り
ません。そうなったら神という言葉自体無意味です。
 超越的に存在するからこそ神なのです。宗徳君には神の姿は見えない。それだけの事です。しかし心配は
要りません。私にだって神の姿は見えないのですから。
 ただふと、何処かで、ああ、ここに神が居る、神が宿っている。そう感じることの出来る瞬間が、一生の内に
一度位はあるかも知れません。その時こそ、私達は超越的な神の存在を実感出来るのです。
 ですから実証は不可能です。従って神が存在しないと言ってもそれは誤りではないのです。だからといって
がっかりする必要も有りません。神は超越的に存在し、私達はそれを実感出来る可能性を持っている。それで
良いのではありませんか?」
 宗徳は少しずつソードの言う言葉を理解し始めていた。しかしまだ少し引っ掛りを感じるのだ。

「は、はい。何かこう私は思い違いをして居た様な気が致します。ただ申し訳御座いません、まだすっきりしま
せん」
 宗徳は正直に言った。これが相手が金森田や他の幹部達だったら、理解した振りをするのだろう。だが、
ゆったりとした広い心を持つソードには、その必要性が無い事を三人の付き人達は良く理解していた。
「宗徳もしつこいねえ。まあ、それも長所の一つだろうけどね。……しかし先生は何処でそんな数学の知識を身
に着けられたのですか?」
 栄太郎は何時に無く丁寧なものの言い方だった。大学は出ていたが、専らスポーツばかりやっていた、ス
ポーツ特待生の様なものだった。
 格闘技に関する論文で何とか卒業した程度だったので、数学の理論の話などになると、全くの音痴であって、
それが出来る者に対しては無条件に尊敬してしまう位である。

 和寿も事情は栄太郎と似ていた。彼の場合は、ある地方の、三流等と陰口を叩かれる無名の大学を、ぎり
ぎり一杯の成績で辛うじて卒業したのに過ぎない。
 恐らく学力テストをすれば、以前の林谷昇に負けてしまう水準だったろう。彼にとっても数学は理解不能な学
問の一つだった。高校卒業後は数学とは殆ど無縁に生きて来たのだった。

 ソードは普通に高校を卒業した事になっているが、大学には行っていないことになっていた。林谷昇時代、数
学を深く本格的に知る事は出来なかったが、数学の一般教養書や数学史などの本を片っ端から読み漁ってい
て、それは今も続いていたのである。
 もしその事を医学に例えるならば、医者ほどの知識は無いが、看護師位の知識は十分にあった。その知識
の片鱗が少しばかり形となって現れたのである。

「一般向けの数学の読み物を結構読んでいるからね。さっき言ったことは、無限に関する話なんだけど。まあ、
あんな妙な事が起こるとすれば無限の場合位だろうから。
 無限といっても色々種類があるということから派生する難問だったのだけど、自分の記憶に間違いが無けれ
ば、確か1960年代に証明されたと聞いているけどね」
「へえーっ、そ、そうなんですか。はははは、何の事だかさっぱり分からない。もうその話は良しにしましょうよ。
数学と聞いただけでなんかこうアレルギーになっちゃいそうなんで……」
 栄太郎は話を違う方向に持って行きたい様である。

「しかしカスミさんって色っぽい人でしたね。先生はああいうタイプの人はお嫌いですか、それとも……」
 突然和寿が話を変えた。
『金森田先生を始めとする幹部達には多くの愛人が居る事は公然の秘密だよな。しかしソード先生には女っ気
が全く無い。
 個人的なファンなら相当いそうだけど、女からの電話なぞあった例(ためし)がない。それとも極秘で付き合っ
ている女性が居るのだろうか?
 ホテルでの妙な独り言はやっぱり彼女が欲しいからなのじゃないのかな。その気になれば幾らでも付き合え
るのに、ちょっと晩生(おくて)なのかな?』
 そんなふうに感じて、このチャンスに言っておこうと思ったのである。

「カ、カスミさんですか? 前にも言ったと思いますが、昔はファンでした。今は卒業状態です。な、何とも思って
いません」
 ソードはちょっとうろたえた。折角忘れかけていたのに、思い出してしまったのだ。
「それにしても妙な事を言っていましたね。昔好きだった女友達の彼の、左四十五度前から見上げた顔がとっ
ても綺麗だとか何とか。女というのはまあ、男の顔をそんな風にまでして見ているんですかね?」
 栄太郎は数学から話題がそれたので早速和寿に追随した。もう数学に話が戻らない様にしたいらしい。

『そうか、そうだったんだ!』
 栄太郎にそれを言われて、ソードはやっと、自分の顔の謎が解けた気がした。
『子供の頃には、男の子だった事もあって、自分の顔に対して興味が無かったから、何も感じていなかった。
しかし、中学になって異性に目覚めてからは、自分の顔が女性にどう見られているのか気になりはしたが、
その頃にはかなりの近眼でもう眼鏡を掛けていた。
 そうなると鏡で自分の顔を見る時、眼鏡を掛けている関係上、前から四十五度の顔は自分では殆ど見る事
が出来ない。大抵正面の顔だ。
 カスミさんも言っていたな、正面の顔は大した事が無いって。髭を剃る時には眼鏡を外すけど、今度は余りに
近くて顔の形全体は見えないし、まして少し離れた所から見上げるなんて出来っこない。
 それともう一つ、異性と同性とでは見え方が違う。以前テレビで見たニューハーフの顔が、男だと分かった途
端、『素敵な顔』が『つまらない顔』に一瞬で切り替わって見えたことがあったよな。
 俺は男だから、鏡に映る自分の顔は同性の顔だ。ナルシストは別として、自分の顔が素敵だ何てとても思え
ないのはむしろ自然な事だろう。ああああ、そういうことだったんだな……』
 ソードは暫し聞かれた事にも答えずに、長い間謎だった問題がやっと解けた感慨に浸っていた。

「先生はやっぱり、カスミさんが好きなのでは?」
 宗教上の重要なことから女の話になったことに、ちょっと不満だった宗徳も、女っ気の無さ過ぎるソードの事
が気になりだしたのだった。
「まさか男の人が好きなのではないですよね?」
 栄太郎が変に気を回して言った。

「はははは、大事な試合の前です。その話はまた何時かする事にして、そろそろ時間でしょう? 行きましょう」
 若干早かったがソードは直ぐ立ち上がって、アイスコーヒー四人分の代金を支払って、スケートリンクの方へ
歩いて行った。途中で思い出した様に小用を足したので、時間的にはピッタリ位だった。

「ソードーッ!! ソードーッ!! ……」
 会場に着くと、応援が凄かった。ソードと対戦する選手は既に来ていたが、応援の声は殆ど無い。来ていた
のは、現役のスピードスケート長距離部門の全日本のチャンピオンだった。
 しかし全く不人気だった。それでも勿論、スタッフの合図で応援合戦が始まると、ちゃんとその男にも声援が
あった。

「フレッ! フレッ! ソードッ! フレッ! フレッ! ソードッ!」
「フレッ! フレッ! アオイシ! フレッ! フレッ! アオイシ!」
 不人気な男は青石譲二の息子、譲一郎(じょういちろう)だった。父親もそうだが、息子も何かと悪い噂のあ
る男だった。実力があるのに、勝つ為に手段を選ばない様な印象があった。

 何故か彼のライバル達は大会間近になると、食中毒になったり、暴漢に襲われるのである。その様なことが
五、六度もあった。
 決定的な証拠が無く彼はずっと不起訴になって来ていたのだが、それ以外にも泥酔して暴れたり、痴漢行為
で逮捕されたこともあった。
 薄汚れたチャンピオンでは人気が無いのも通りである。もう一度何か事件を起こしたら、スケート界から追放
されるギリギリの状態だった。

 ソードと、一人だけで来ていた譲一郎が着替えて戻って来ると、時間はかなり切迫していた。譲一郎の着替
え時間がやけに長かったからである。
「さあて、これは本当に大変な事になりました。挑戦するのは全日本のチャンピオンで御座います。もう時間が
御座いませんので、早速行きましょう。
 それではスターターの大橋メグミさん宜しく! お二人はスタートラインにお立下さい。さあ、世紀の一戦がこ
れから始まります!」
 司会のコンポンが言ったのだが、何故か譲一郎はスタートラインに行かなかった。ソードだけがライン手前に
立っている。

「あのう、青石さん、スタートラインの方へどうぞ」
 コンポンが促したが、
「さっきおめえ、何つった! 挑戦するのは全日本のチャンピオンで御座います、だとう? 馬鹿にしやがって、
俺に挑戦するんだろうが! 舐めんじゃねえぞ!!」
 怒り狂った譲一郎は、
「バシイッ!!」
 コンポンの顔を平手打ちにした。

「えーーーっ!!」
「何するんだよ、青石!!」
 驚きと非難の声が一斉に沸き起こった。
「うるせえっ、早くスタートの号砲を打ちな!」
 譲一郎は非難の声に身じろぎもせずに、ゆっくりとスタートラインに歩いて行った。

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