夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
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「用意、……パンッ!」
ソードは普通に飛び出した。譲一郎はのんびりと歩く位のスピードで飛び出すと、それでも徐々にスピードを
上げて行った。
「フレーーッ! フレーーッ! ソードッ!! フレーーッ! フレーーッ! ソードッ!!」
ソードの応援は正に大声援。反して譲一郎の方は半分にも満たない声援だった。これもまた前代未聞の出
来事だった。
それどころか、気が付いてみると譲一郎に対する声援はやがてぱったり途絶えてしまった。全員がソードの
応援に回ってしまったのである。
「くたばれ青石!!」
「出て行け青石!!」
応援するどころか、激しい野次や罵声が、本来個人的には何も言わない筈のエキストラの連中から、譲一郎
に向けられた。途中で首を捻ってみたり、腕をブラブラさせたりする、不真面目そのものの滑りだったからであ
る。
それでもソードにピッタリくっ付いて、数メートル後ろの間隔をずっと保っているのは、流石と言えば流石と言え
るだろう。
『こんな野郎に勝つことなぞ屁でもない。それを何だって親父の野郎は二人目の挑戦者にするなんていうハン
ディを付ける! これじゃあ勝って当り前じゃないか!』
譲一郎の真の怒りは父親に向けられていたのだが、その父親は既に愛人と旅行に出掛けて仕舞っていて、
怒りのぶつけようが無かった。結局、コンポン君がそのとばっちりを受ける羽目になってしまったのである。
しかし二十周目辺りから、事態は一変した。ジリジリとソードが譲一郎を引き離しだしたからである。譲一郎
は慌てた。必死になって追い掛けたのだが、差は開く一方だった。
譲一郎のタイムは決して悪くは無い。日本新記録に迫るタイムを出していたのだ。だがソードのタイムは世界
記録をも超えそうなタイムだった。
「ウオオオオオーーーーーーッ!!!」
大声援はソードが譲一郎を一周抜いてしまったからである。あっと言う間の出来事だった。疲れが見え始め、
スピードの落ちて来た譲一郎に対して、ソードのラストスパートは目を見張るほど素晴しいものだった。
「世界新記録達成!!! 未公認ながら12分33秒55これは世界新記録です!!!」
「ウワーーーーーーーーーッ!!!」
場内割れんばかりの大歓声だった。もう誰も青石のゴールなど見ていなかった。それに気が付いたのか青石
は途中でコースを外れ、ふて腐れた態度で罵声を浴びながら会場から姿を消した。
父親と違う所はコスチュームを脱いだりせずにそのまま出て行ったところである。若さのせいか流石に恥ずか
しく、公然と下着姿にはなれなかったようである。
「お、おめでとう御座います。しかし世界新記録ですよ。何というか、オリンピックに出場されますよね?」
譲一郎に手加減抜きの平手打ちをされて、左頬を腫らしたコンポン君がソードに勝利者インタビューした。
「さあ、それは、どうでしょうか。私にとっては宗教活動が一番ですので、色々検討してみませんと……」
ソードは言葉を濁した。
『明日はどうなるか分からない。金森田の気が変って、俺を殺しに来たらお仕舞だからな……』
目一杯頑張って、脳内の疲労はピークに達していたので、何時ものポジティブな態度が取れなかった。何より
も早く休みたかった。
「そんな事を言わずに、是非お願いしますわ。ううう、ソード・月岡さん貴方は日本の宝物です。私からも是非お
願い致します。うううっ」
スターターの役目を終えて、本来の服装に戻った女子アナの大橋メグミが、感動で目を潤ませながら言った。
「はい、なるべく前向きに考えてみましょう。どうも皆さん、御声援有難う御座います!」
ソードは笑顔を見せて手を振って会場を後にした。
『兎に角早く休みたい!』
ソードの頭の中は今はそれだけだった。
『ふうう、今日は頑張り過ぎたか?』
ホテルに戻ったソードは風呂に入って体の汚れを落としてから、教会の地下の研究室に成果を報告した。そ
の後直ぐにベットに潜り込んで、目を瞑り今日の反省を始めた。
『今日は目一杯やってみた。声援が大きかったからな、ついつい本気になってしまった。多分今日位が俺の能
力の限界なんだろう。
世界新記録、虚しい響きだ。機械の力を借りての記録だからな。ああ、世間を欺いているのが辛い。早く金
森田を殺して楽になりたい。あの男が生きている限り俺の愛する者達の命は保障されないのだからな。
あああ、いかん、こんな時にまで情欲が激しく高まって来る。いや、こんな時だからこそなのか。ああ、気を静
めよう。37掛ける18は666。円周率は3.141592……、それから、……』
ソードは高まった情欲の鎮め方として、計算問題をやってみたり、暗記している円周率を心の中だけで唱えた
り、数学の公式等を思い出して数値計算をしてみる等の方法を思いついていた。
余程疲れていたのだろう、何時の間にか何かの計算をしているうちに眠ってしまっていた。しかしその頃研究
者達は大騒ぎをしていたのだ。ソードの記録は予想を遥かに超えていたからである。
「ソード先生起きて下さい。テレビ局の方がお迎えに来られましたよ」
既に翌日のお昼近かった。十二時間以上も眠っていた事になる。午後からは『一にスポーツ、二にスポーツ!』
の番組に出演する予定だった。
「ああ、今行きます。はあ、もうこんな時間か、あれ?」
ソードは予想以上に眠っていたことに、自分でも驚いたが、尚拙いことに、体が思う様に動かなかった。知ら
ず知らずの内に無理をしていたのかも知れなかった。
「ああ、お早う」
やや足を引き摺り加減に現れたソードを見て、
「ど、どうされたんですか? 大丈夫ですか?」
三人の付き人達は慌てて声を掛けた。
「いやー、面目ない。ちょっと昨日は頑張り過ぎたみたいだ。悪いんだけど、ゆっくり歩いてくれないか」
ソードはゆっくりだったら何でもなく歩けることをアピールした。
「あの病院で診ても貰われた方が宜しいのでは?」
栄太郎が心配して言った。
「はははは、大したことはありませんから。それに私の体は教会本部の医者でないと上手く治せない所があり
ますからね」
ソードは何とか誤魔化した。
「分かりました。でもこれ以上悪化したら、病院行きですからね!」
若川原和寿は情け容赦なく言った。本気でソードの身を案じていたのである。
水泳とスピードスケートの全く分野の違う二つの種目で、世界新記録を持つソードの名前は今や日本中の
話題になりつつあった。こうなって来ると放送局の待遇からして違う。
普通の乗用車ではなく高級外車でのお出迎えになったし、放送局のスタジオでは盛大な拍手で出迎えられた。
「世界新記録達成おめでとう御座います」
彼のファンだという、女性タレントから花束を贈呈されたりした。
「ヒャッホーーーーッ!!」
おどけた感じの男性アスリートが大きな声を掛けたり、
「パチ、パチ、パチ、パチ、……」
再びスタジオ中が万来の拍手で包まれたりで、物凄い歓迎振りだった。ただ、本来の挑戦者だった、怪我を
した紫花エリカの姿は無かった。それほど大きな怪我ではなかったが、経緯から来辛かったのだろう。
「それでは賞金と副賞の楯で御座います。さあて、次回の挑戦は何に致しましょうか?」
ここまでの経過のダイジェスト版を録画で見て、大いに盛り上がって、番組も終りに近くなると、ソード
は二回連続の勝者という事で、賞金十万円を受け取った。次の挑戦種目はみんなの話し合いで決るのだが、
「今度は空中にしましょうや。水上と氷上の後ですからね」
先ほどおどけた元トップアスリートが提案した。彼はスキーのジャンプのチャンピオンだった男である。
「しかし、空中というのはちょっと。それよりまだやっていない競技もありますわよ。例えばアルペンスキーなん
かどう?」
これは元スキーヤーで今はスキーの指導員などをやっている女性が言った。
「いえいえ、水中もありますよ。素潜りもなかなか良い物ですよ。モーターなどを使ったりしないんだったら行け
るんじゃないんですか?」
道具を一切使わない素潜りの元世界チャンピオンが言った。道具を使わないと言っても、実際にはウェット
スーツとゴーグル、その他に足ヒレと潜り易くする為の錘(おもり)を腰に巻く事だけは許されている。そのスタ
イルでの数年前までの世界チャンピオンだった。
「うーん、潜水は得意過ぎるからね」
ソードはつい本音を漏らした。今現在の水準ならば二、三時間は軽いのである。何しろ呼吸していないのだか
ら。ただ海に深く潜る事は研究者からきつく止められていた。
現状では二十メートル位が限度だろう。それ以上は未知の領域だった。実験した事がないので、予想では百
メートルは行けるだろうと考えられているが、不慮のアクシデントが怖かった。
「得意過ぎるんですか?」
ソードの独り言を司会のコンポン君は聞き逃さなかった。
「ああ、いや、その、過ぎるという事はありませんが、プールで潜水して泳ぐのだったら、割合得意だということ
です。はははは、聞こえちゃったんですか?」
ソードは笑って誤魔化した。
「はい、しっかり聞こえました。だったら、ついこの間まで世界チャンピオンだった、潜水泳法の床伏懸崖(とこ
ふしけんがい)さん、適役ですよ!」
コンポンは大声で指名した。
「ホイ来た、合点承知! 得意と言うんだ、ハンディ無しで良いですよね?」
懸崖は楽しげに言った。ソードと対戦してみたくて仕方が無かったのである。
「はい。そのう、ルールはどうしましょうか?」
「潜水泳法は危険を伴いますからね、ついつい無理をして命を落とす奴もいる。今回は足ヒレも無しにして普
通にプールに飛び込んで、後浮き上がらずに、百メートル泳ぎ切ったスピードで行きやしょう。最後のタッチは
浮き上がっても良しということで。
勿論無理だと思ったら途中で止めりゃ良い。あっしは泳ぎ切る自信がありますが、ソードさんはどうですか?
ただもう一度言っておきますが、無理だけはしないで貰いたい」
「はい、その位でしたら何とか。ただ余りスピードには自信がありませんけどね」
ソードは千メートルと言いたかったが、それは非常識だと思って止めたのだった。
『百メートル程度だと、スピード的に負けるかも知れない』
少し不安を感じていた。