夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
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「ちょっと、お願いがあるのですが、宜しいですか?」
ソードは珍しい位、自信無さそうな言い方をした。
「お、お願いですか?」
コンポン君はソードの態度が何時もと少し違うことが気になった。
「はい、そのう、現在、若干体調を崩しています」
「ええーーっ!」
会場中がざわついた。
「あの、大した事はないのですが、昨日ちょっと頑張り過ぎまして、少し疲れました」
「それはいけませんね。じゃあ、少し、二、三週間位休みますか? 何しろ世界新記録保持者ですからね。それ
位の例外はあっても構わないと思うのですがね……」
コンポン君は独断で言った。
「いや、そうじゃありません。私には専属の医師が付いております。彼が治療すれば一日で完治すると思いま
す。それで、教会に戻って、彼の治療を受け、それから、彼の監視の元で今回のフリーダイビング、ダイナミッ
クという競技に望みたいのですが。
従って、コーチは要りません。それを了承して欲しいのです。ただ今回のルールだと、従来までの潜水したま
まで何メートル泳ぐのか、というのとは少しルールが違います。百メートルと決っているのですから」
「ほほう、コーチ無用ですか?」
懸崖はちょっと呆れ気味に言った。
「はい、私の担当の医師は一人ではありません。様々な分野の専門家が揃っております。彼等のコーチで挑戦
したいと思いますが宜しいでしょうか?」
「お願いというのはそのことだったんですか?」
コンポン君はソードの真意が分かって、一応納得した。
「あっしは構いませんよ。素潜りの記録は後輩に破られちまったが、今回のは新しいルールだ。多分一分そこ
そこのタイムだと思うんですがね、相手にとって不足は無し。今から楽しみですぜ!」
懸崖の張り切り振りで、全ては決着した。それから数日後に編集された内容がテレビで放映されるや、日本
中が注目する一大イベントになってしまったのだった。
「さあ、いよいよその日がやって来ました。二つの世界記録を持つ男、ソード・月岡と、ごく最近まで世界記録を
持っていた、床伏懸崖の新たなルールでの、フリーダイビング、ダイナミック、百メートル競泳が間も無く始まり
ます。
新しいルールですので、勝った方の記録がそのまま世界新記録となります。今日のこの大会には日本中が、
いや、世界中が注目しております! では選手入場ですどうぞ!」
コンポン君の派手なゼスチャー入りの紹介で二人はウェットスーツ姿で登場した。
「ウウウウウオオオオオオーーーーーーッ!!!」
屋内プールに大声援が響く。ソードを見ようと、出演者がお金を支払う、有料のエキストラ出演にも拘らず、
数千人が観客兼応援団となっていた。
ごく最近出来たばかりの屋内プールで、そこのオーナーはプールの宣伝になるとばかりに、使用料を無料に
していた。放送局側としては経費が大幅に浮くことになって願ってもないことだった。
「パンパカパンパンパーーーンパパ、パンパカパンパンパーーーンパパ、……」
ファンファーレが鳴り響き、場内アナウンスの女性が二人を紹介し、その都度、二手に分かれた、番組始
まって以来の大応援団が、チアリーダーの演技と共に繰り広げられた。国家的イベントの様な、ど派手な中に
も何処か厳粛な感じもある、応援合戦の演出だった。
「……位置について、……用意、……パンッ!」
水泳競技だったが、ビープ音では味気ないと、号砲になった。
「バッシャーーーンッ!!」
二人は綺麗に飛び込んだ。第四コースは懸崖。第五コースがソードだった。今回は水中での戦いなので、ア
クアラングを背負った何人もの水中カメラマンが、二人の様子を伝える。
その模様は正面上方の大画面にリアルタイムで映し出されていた。最初の内は、二人ともほぼ同じペースで
泳いでいたのだが、すぐにソードがリードし始めた。
「まるで魚だ!」
「ほんとだ、魚だ!」
巨大スクリーンを見ながら、そんな囁きがあちこちから聞こえて来る。それ程ソードの動きは素早い。二人と
も同じ様に水中では平泳ぎの様なカエル泳ぎである。フィンとも呼ばれる足ヒレ無しでは、その方がバタ足より
もやはり速い様である。
水上での平泳ぎの世界記録は一分を少し切る程度だが、水中に潜ったままだったら波の抵抗の少ない分、
理屈の上からはそのタイムを上回る筈である。
しかし激しく動けば動くほど酸素を多く使うことになるので、途中での酸素の供給のないこの競技では、速くて
も数秒程度だと考えられる。だが今日の二人は違っていた。特にソードは異様に速い。
「な、何ですかこれは? 百メートルのフリースタイルより速いかも知れませんよ!」
コンポン君はマイクを持ってプールサイドで実況中継をしていたが、ソードのタイムは五十秒を軽く切りそうな
のだ。決して遅くはない懸崖を十メートル以上も引き離してる。ただもう唖然とするばかりである。
「一着、ソード・月岡君、タイムは、ええっ! タイムは44秒20、せ、世界新記録です。二着、床伏懸崖君、
50秒67これも素晴しい記録です!」
場内アナウンスの声が、しばしばつっかえるほどの記録が出た。初競技なので世界新記録は当然だったが、
とんでもない超人的な記録になってしまったのだった。
『しまった、どうして全力を出してしまう! いや、まだ、余力は残しているが、もっと抑える筈だったのに何故こ
んなに頑張ってしまう!』
会場の割れんばかりの大声援がソードにははっきりとは聞こえないほど落ち込んでいた。傍目には体力の
限界に達している様に見えた。
何しろ潜水競技である。意識を失い掛けたとしても不思議ではない。ソードの呆然とした状態に誰も疑いを
抱かなかった。実際懸崖も足元がおぼつかないほどフラフラだった。
「いや、もう声が無いですよ。これだったら水泳のフリースタイル競技に出ても良いんじゃないんですか? フ
リースタイルですからね、潜っても良い筈です。
もし駄目だとしても、普通にフリースタイルでやっても行けるんじゃないですか? 苦手と仰っていた短距離で
も!」
コンポン君は相当の意気込みで言った。
「はははは、いやあ、申し訳ないのですが今は頭の中が空っぽでして、ちょっと酸欠気味、サンバ状態かも知
れません。頑張り過ぎの絶対禁物な競技なんですが、皆さんの声援が凄いせいか、ついつい頑張ってしまうん
ですよね。でもお陰様で凄い記録が出せました。皆さん有難う御座います!」
ソードは最後には上手くまとめて、懸崖と共に笑顔で手を振りながら会場を後にしたのだった。ソードの名声
はますます高まって行ったが、彼自身は恐怖心すら感じていた。
彼の頑張りの背景には、金森田の叱咤激励がある。金森田はいずれ近い将来ソードと入れ替わる積りなの
で、大いにやれと、ますます発破を掛けて来ていたのだった。彼はソードと入れ替われると信じて疑わなかった
のである。
『やり過ぎは拙いな。幾ら金森田の命令とは言っても、ものには限度がある。素人の目は誤魔化せても、研究
者達の目を誤魔化せるかどうか……』
ソードの心配は現実のものになった。一部の学者が、今回の記録に疑問を投げ掛けた。それをテレビのワ
イドショーに出演した学者が自分もそう思うと指摘したり、週刊誌に大々的に取り上げられたりしたのである。
学者達はソードの過去の記録にも疑いを持っていた。トライアスロン競技での優勝は、双子或いは三つ子が
途中で摩り替わったのだと言うのである。
「酸素供給剤の使用があったのに違いない! か。勝手な事を書くものですね」
例によってソードは別室で休んでいたが、苦々しい顔で、和寿はホテルで仲間の栄太郎や宗徳と話し合って
いた。
『一にスポーツ、二にスポーツ!』の番組で、既に次の競技がフルマラソンと決っていて、明日がその競技に
参加する日になっていた。
今回は例外的に著名な『東京世界マラソン』へのエントリーである。上位入賞者にはドーピングテストが義務付
けられているのだ。誤魔化しは利かない。
ソードがこの競技を望んだのは、疑いを晴らす意味もあったのだった。早朝から彼に限ってずっとテレビカメ
ラが追いかけて如何なる不正も無い事を実証することになっていたのである。
放映はされないがプライベートな場所、トイレの中にまでカメラは入って行って、彼の無実を証明する事になっ
ていた。
「しかし、フルマラソンでも優勝したら文句は言えないだろうよ。学者先生達はトリックが無ければ惨敗すると断
言しているがな。ただ一つ心配なのは、先生はお疲れの御様子だ。
そりゃそうだろう、毎週毎週ハードな競技をやっているんだ。しかも凄い記録を次々に出している。そろそろ
どっと疲れが出て来てもおかしくはない! 俺はそれが心配だ」
栄太郎は如何にも心配そうに顔をしかめた。
「しかし下手に何かしたら、やっぱり疑いを持たれることになる。ここは先生を信じようじゃないか。ソード先生は
ここだけの話だけど、やっぱり神の化身じゃないかと私は思っているんだけどね。人間じゃない様な気がする」
宗徳は本心を言った。
「ま、まさか。でもそう言われてみるとそんな気もするな。まあ、明日も優勝するかどうかだけどな……」
栄太郎も宗徳と同じ気持に段々なっていたが、まだまだ信じてはいなかった。和寿は密かに信じていたが、
口には出さなかった。
『明日で全てが分かる。きっと優勝する! そしたら俺は、俺は、先生にこの命を捧げる! 死ねと言われたら
直ぐにも死んでみせる!』
そう強く思い込んでいた。
「お早う御座います!」
翌日、カメラマンやその他のスタッフ数人が、約束通りホテルの部屋の前で待機していた。
「どうぞお入り下さい」
ソードは笑顔で彼等を部屋に入れた。ソードに対する徹底した密着取材、途中で一切カット無しの、カメラの
撮影が始まったのだった。そのままフルマラソン終了まで撮影を続けるのである。