夏 休 み 未 来 教 室 


                                              春 野 夢 男

                               85


「それじゃ、先ずは食事ということで、レストランに行きましょう」
 暫く部屋の中で今後の段取りなどを話し合ってから、マラソンに都合が良いという事で泊っていた、ホテルの
一階のレストランで一緒に食事をした。局のスタッフ達も交代で食事をした。カメラは延々と回り続けている。

 ソードはその日の為に、教会の地下研究所で随分と食事の練習や水分補給の練習を積んで来たのである。
また未公開ではあるが、トリックを防ぐ為に、小便をしている所さえも写されるので、その練習もして来たし、そ
の他に放屁などの練習もして来た。
 些細な事に思われるが、全く無ければそれはそれで疑われるので、臭いの付いたガスも体内に貯蔵してあっ
て、これは半ば自動的に出る。更には食後のげっぷさえも若干出す様にしていた。

『何気なくやるのが何とも難しいが、まあ、仕方があるまい。それにしてもトイレの中まで写されるのはちょっと
厳しかったな。
 ドーピングテスト用と、普通用の二通りを分けて出さなきゃならないから大変だよ。まあしかし俺より研究ス
タッフが良く頑張ったな。
 小便の色、臭い、出し始め、その途中の状態から終り方、本物そっくりにするのになかなか大変だった。ドー
ピングテストの時の様に、容器に取る時は水道の様に出してもばれなかったけど、放尿の時には、一定の勢い
を十秒位は維持しなくちゃならないし、真っ直ぐ出ているんじゃなくて尿は回転しながら出ているんだよな。それ
もまた難問だった。
 ふふふふ、大の方はもう済ませてあることにしてあるから良いけど、それもとなったら大変だよな、臭くて。
はははは……』
 ソードは大便まで写す事になったら、撮影スタッフがとても大変だと思ったが、そんな事を考えているうちに
急に可笑しくなって、笑いを堪えるのがかなりきつかった。結局ニヤニヤした顔になった。

「何が可笑しいんですか?」
 珍しいソードの表情を見て、和寿が言った。
「いや、これからトイレなので、撮影が大変だろうと思ってね。男が男のものを見ても面白く無いし、臭いしね。
そう思うとなんだか可笑しくてね」
 ソードは上手く辻褄を合わせた。

「トイレなんですか?」
 栄太郎が聞いた。
「ああ、それじゃ、行きましょうか」
 ソードは付き人も撮影スタッフも全員引き連れて男子トイレに入って用を足した。
『ふう、何とか上手く行ったな!』
 大した粗相も無く、小便は無事に済んだ。直マラソンのスタートである。徒歩数分で、スタート地点の東京国
際競技場に到着した。

 着替えは既に中にしてある。ローブを脱いで、体を冷やさない為のガウンを暫く着ていたが、十月の日差しは
まだかなり強く、三十分前にはガウンを脱いで、何時も通り、長袖シャツと丈の長いパンツを着用していた。
 それと日除け用の帽子と、ゴーグルっぽいサングラスをしていた。サングラスは目にゴミが入ることを防ぐ為
のものでもある。

 スタートはテレビの放映にあわせて、午後十二時三十分だった。参加者は百数十人。今回、ソードの出発時
の位置は特例で最前列だった。無名の時だったらずっと後ろなのだが、一番前の十人に選ばれていたので、
『接触転倒を避ける為には最初からスパートするしかないな』
 そう思っていた。

「用意、……パンッ!」
 火薬を使った号砲一発、東京世界マラソンは始まった。競技場を一周してから外に出て行く。かなりのスピー
ドで先ず四人のペースメーカー達が全体の先頭をキープする。
 それから徐々にスピードを通常のペースに戻す。彼等は三十キロ地点でリタイヤする事が決っているので、
彼等を目標にして他の選手は付いて行けば良い。

 ソードはピッタリ五位に付いていた。ただペースメーカーと言えども調子の悪い者もいる。その為に四人いる
のだが、この時は二人の調子が悪く、次第に順位を落として行って、二十キロ地点でリタイヤしてしまった。
 しかし残りの二人の調子は素晴しく、二時間そこそこの好タイムが予想された。

 今回が異常な状態になることが段々分かり始めると、沿道の声援も、テレビの実況も、激しい興奮を巻き起
こしつつあった。トップの三人だけが異様に速いのである。四位以下を大きく千メートル以上も引き離していた。
 ペースメーカー達も少し困った。原則としてペースメーカーは選手を先導する役割なのだ。従って一般の選手
の後に付く訳には行かないのである。

 本来ならもう少しペースを落として走るべきなのだが、ソードがピッタリくっ付いて来ていて、落とすに落とせな
いのだ。やがて三十キロ地点。ペースメーカー達は役目を終えて、リタイヤして行った。
「完全にオーバーペースですよ。もう直スピードが落ちますよ」
 テレビの解説者はそう断言した。
「しかし快調な走りですよ。このままだと、二時間切りそうです。まあ、いずれペースが落ちて来るとは思うので
すが……」
 中継担当の男性アナウンサーは解説者に合わせたが、内心では、
『何を言っている、このくそ解説者、ペースは落ちそうも無いぞ!』
 等と罵っていた。

「三十五キロ地点を過ぎましたが、まだ大丈夫なようですね。このままだと、やはり二時間切るとてつもない大
記録が出そうです。記録は兎も角、もう優勝は間違いないでしょう!」
 アナウンサーはそう叫んだ。
「いや、ここからがきついんですよ。そろそろガクッと足に来て、リタイヤするか歩くかして、結局平凡な記録に
終ると思いますよ。このまま二時間を切るなんて有り得ないですよ!」
 解説者は強情に自説を押し通そうとした。アナウンサーはもう彼に同調しなかった。半ば無視して中継を続け
たのである。

「さあ、もう四十キロ地点、全くスピードが衰えておりません。余程のアクシデントが無い限り、優勝は間違いあ
りません。後は記録です。これも二時間切る事はほぼ間違いないでしょう!」
 アナウンサーは相当の興奮状態で言った。

「後残り二キロが問題なんですよ。歩くと思いますよ。心なしかスピードが落ちて来た。二時間は切れないよ。
優勝も厳しいと思うよ……」
 アナウンサーの勢いに押されて、解説者はブツブツと独り言の様に言った。

「いよいよ競技場に戻って来ました。ここを一周半します。優勝は勿論の事、大記録達成も間違いありません!」
 アナウンサーはもう絶叫口調が先ほどからずっと続いていた。解説者は殆ど何も言わなかった。
「後百メートル、……後五十、……後二十、十、……ゴーーーールッ!! 一時間五十九分二十四秒、世紀の
記録だ! 驚異的世界新記録の誕生です。ソード・月岡選手、貴方は神なのか! 恐るべき記録の誕生です!」
 アナウンサーはすっかり興奮しきっていた。

「ああ、まあ、その、まだドーピング検査が終っていませんからね」
 解説者は相変わらずぼそぼそと独り言の様に言った。
「それでは優勝インタビューが始まるようです。どうぞ!」
 アナウンサーは遂に解説者を完全に無視して言った。

「優勝おめでとう御座います。驚異的な世界新記録ですよ!」
「はい、今日は何かとても調子が良かったし、沿道の方の声援がとても励みになりました。たまたま幸運に記
録が出ましたが、別に狙っていた訳じゃなくて、幸運が重なった結果なんだろうと思います」
「いや、しかし二時間切っちゃいましたよ。途中の給水は何度か取り損ねて失敗もあったようですが……」
「はい、ただ、本当に今日は調子が良かったので、取れなくても焦らなかったのが良かったんだと思います。何
回かはちゃんと取れましたからね。ああ、でも今頃になって疲れがどっと出て来た感じです。この鈍さが良かっ
たのかも知れません」
「はははは、珍しい事を仰いますね。鈍さが良かったんですか。それでは最後に観衆の皆さんに一言!」
「いや、本当に今日の記録は皆さんの声援の賜物です。応援有難う御座いました!」
 ソードはそう言って、一度頭を下げてから、場内の大声援に笑顔で手を振って応えた。間も無く、ドーピング
検査場に向かって行った。

 テレビの解説者の期待(?)も虚しく、ソードはドーピング検査でも完全に白だった。途中での摩り替わりも当
然全く無く、ソードの名声は全世界に鳴り響いた。
 ファンレターは毎日数百通は来たし、電話も数千件。ネットのメールは全世界から数万件にも及んだ。しかし
その分ソードの苦悩は深くなった。

『何故(なぜ)驚異的な記録を出す? 好記録で優勝する約束だったじゃないか。世界記録は出さない積りだっ
た。何故だ、何故?』
 自分が頑張り過ぎてしまう理由が分からなかった。それは彼の研究者達も同じ思いだった。
「ソード先生の記録はこの所、ずっと異常に良い。何故なんでしょうか?」
「さあ、……しかし機械の能力から考えれば理論的には不可能な事じゃない。……でも、普通に頑張ったとしても、
有り得ない筈なんだけどねえ……」
 研究者達にも依然としてその理由は分からなかった。

「ソード・月岡さん、四週勝ち抜きおめでとう御座います。賞金百万円と記念の楯と、それから今回特別に、局
の方から新記録達成賞として、三百万円差し上げます。本当におめでとう御座います」
「ああ、有難う御座います。それでは遠慮なく頂きます」
 スタジオの中は万雷の拍手に包まれた。しかしその拍手の音は胸をチクチクと突き刺す。ソードにはそう思え
て仕方が無かった。

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