夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
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「あのう、またまた勝手なお願いなんですが、来週陸上競技の全日本の大会の予選がありますよね?」
ソードは思い余ったかのように言った。
「はい、関東地区予選がありますけど。しかし、マラソンの世界チャンプの出る様な大会ではありませんよ。どう
なさるお積りなんですか?」
スポーツ通の男性アシスタントが言った。スポーツ界の様々な情報を、番組のアクセントとして随時入れる役
割を担っている。
「マラソンではなくて百メートル競走に出たいのです。短距離は苦手なのですが、これを最後の挑戦にしたいと
思いましてね」
「ええっ! 最後ですか? まあ、この番組では五回連続で勝ち抜けば、一応卒業ということになるのですが、
まさかスポーツ界から引退という訳ではないでしょうね?」
コンポン君は怪訝そうに言った。
「いや、引退までは何とも。ただ少し疲れが溜って来ているので、出来れば暫く休養を取りたいと思いまして……」
ソードは微妙な言い方をした。
「あのう、予選を突破された場合にはどうされるのですか?」
女子アナウンサーの大橋メグミが言った。
「一応、記録にもよりますけど、許されるのだったら全日本の大会に出てみたいですね。しかし今度は相当き
ついので、ひょっとすると予選落ちかも知れません」
「何を仰いますか! 貴方だったら出来ますよ、きっと!」
今週から復帰した紫花エリカが断言した。彼女は何時の間にかソードの熱烈なファンと化していた。
「そうよ、私をあれだけ泣かせたんだから頑張って貰わないと!」
ソードに敗れ去って、悔し泣きをした、黄味麻呂ユウカリもちゃっかりと番組に参加していた。彼女も今では
熱烈なソードファンなのである。
「今度もコーチ無しなんですか?」
「はい、毎度の事で申し訳ないのですが、私の体を知り尽くしている、教会のスタッフと相談しながらやってみよ
うと思っています」
「ええい、もう好きなようにやってくれえ!」
コンポン君は半分おどけながら、引導を渡す様な言い方をした。
「はははは、じゃあ、そうさせて頂きます」
ソードの我儘が通った。番組的には関東地区の予選で優勝することが、同時に卒業ともみなされる事に決っ
た。
『もう、これ以上世間を欺く事に耐えられない……』
そんな憂鬱な気分のまま、ソードは三人の付き人と共に教会に戻って、例によって体のパーツの交換の手
術をしたり、食事などの振る舞いを自然にする練習をしたりして時を過ごした。
しかし今回は今迄で最も難しい、瞬発力を要求される競技である。地下のソード専用のプールサイドで、短
距離走の特にスタートの練習をした。若い比較的足の速い研究スタッフと競争してみると、スタートだけは明ら
かに鈍かった。
「うーむ、こんな事で大丈夫でしょうか?」
研究員の一人が言った。
「実戦練習をしてみましょうよ」
別のスタッフが言うと、
「深夜にここの駐車場で走ってみましょうか? 私の付き人の助乃川君は格闘家でもあるから、足は相当に速
いからね。スケートではこっちが圧勝したけど、百メートル競走じゃ分からないからね」
ソードはそう提案した。
「しかし、それはちょっと拙いのではありませんか? 彼は精神的に先生に強く傾倒していて、勝ちそうになると
わざと負けるかも知れません。
私達は先生の付き人達の様子も注意深く見守っております。彼等はもう完全に先生を神と崇めていると私共
は考えております。ちなみに私もそうなのですが……」
その男の研究員はそう言うと、顔を赤らめた。
「ふうん、じゃあ、単にタイムだけ計って終りにしましょう。練習も兼ねて今夜三回位やってみましょう。余り長く
やっていると、他の人達に見つかる恐れがありますからね。まあ見つかったら、百メートル走の練習をしてい
たのだと正直に言えば良いと思いますけどね」
大会を二日後に控えたその日の夜、一般の人の入れない、幹部専用駐車場で、簡単に百メートルのコース
をラインだけ引いて作ってタイムの計測が行われることとなった。
「行ったり来りを繰り返すのですから、計測は四回にしましょう。そうすれば、そのまま帰れますからね。近くて
良いですから」
ソードの言う事は殆ど何でもすんなり通る。
『なんだか怖い位だな、何か危険を感じる……』
嫌な予感もあったが、まず一回目の計測に入った。
「……位置について、……用意、……ピッ!」
スタートの合図は短いホイッスルにした。深夜に号砲では如何にも拙い。生まれて初めて、スタートにスター
ティング・ブロックを使った。
不慣れな事もあって、タイムは十六秒台と散々だった。コースの両側にスターティング・ブロックが設置してあ
る。
「スターティング・ブロックの間隔とか角度が、どの位が良いのか、それが分かるまでやってみたいな。四回と
言ったけど、こつが飲み込めるまで十回位は掛りそうだ。悪いけど付き合って貰えるか?」
結局、その夜は実際には十往復、二十回も練習したのである。練習の甲斐あって、最終的には十二秒そこ
そこまでタイムを縮める事が出来た。しかし予選突破には程遠いタイムである。
「今夜は遅くまで有難う。申し訳無いんだけど、明日の夜も付き合って貰えるかな。それと若干、体のパーツ
も取り替えた方が良いと思うけど……」
ソードは申し訳無さそうに言った。
「そんな、遠慮などなさらずに。びしびし命令して下さい。この命に代えてもやってみせますから」
多くの研究員はそれこそ大変な張り切り様であった。
「……用意、……ピッ!」
瞬発力を高める為の新しいパーツと交換したソードは、昨日とは見違える様に素早い反応だった。その夜の
内にタイムは二秒も縮まって、十秒そこそこ、予選突破はほぼ間違いないところまでやって来た。
「ううううっ、嬉しいです、ソード先生!」
その場に居合わせた研究員達はほぼ全員が泣き濡れてしまった。
「ど、どうも有り難う。本当に有難う。君達のお陰で何とかなりそうだ」
ソードは研究員が単純に感激していると思っていた。しかし違うのである。
『パーツの改良なんて本当は大した事をしていない。ソード先生は正に奇跡の人、神の子だ!』
そんなふうに感じて感激の涙を流していたのである。
早朝の新幹線でソードは相変わらず三人の付き人と共に上京した。それから何時間か経って、その時が
やって来た。
「関東地区陸上競技選手権ですが、今年は何時もとは違います。何とあの、ソード・月岡選手が出場すると
あって、何時もはまばらな観客席が大入り満員です。
この間の東京世界マラソンにも使われた、最大収容人員八万人の東京国際競技場の客席が、ほぼ完全に
埋まっております。
今日は例外中の例外なのですが、『一にスポーツ、二にスポーツ!』の番組スタッフの方々が何人かここに
来ております。どうぞ、自己紹介を一言ずつお願いします」
男子アナウンサーの辻本春樹はニヤニヤ笑いながら言った。普段殆ど放映されない番組であった。それが
急遽放映される事になったばかりか、顔なじみの局の連中が出て来るので、つい、にやけてしまったのである。
「えーっ、ソード・月岡選手と言えば、この私、コンポンが付き物で御座います! 短距離の苦手な彼が何処ま
で頑張ってくれるか、今日は番組の事など忘れてその事を見極めに参りました。コンポンです、宜しく!」
「ここで告っちゃいましょう。私、ソードさんにぞっこんです。大橋メグミです。今のは本気ですからね!」
「むさ苦しいわね、本気なんて。冗談は顔だけにして欲しいですわ。何時もは裏方で、密やかに咲いている、
可憐な乙女、白金アザミです。
誰よりもソードさんを愛しています。ソードさん、無理をなさらずにね。負けても良いのよ。お疲れの時はこの
私が、白金アザミが貴方を濃密に慰めて差し上げますわ、チュッ!」
アザミは最後には投げキッスまでして見せた。
「いやはや、こんなおかしな連中ばかりですが、全国の皆様、お許し下さい。この人達は元々頭が可笑しいの
ですから」
「何だってーっ!」
「何よそれっ!」
「訂正しなさいっ!」
コンポン、メグミ、アザミの三人は一斉に反発した。冗談とも本気とも取れる様な反発だった。
「ええい、喧(やかま)しいわ、ソード選手の出番ですぞ!」
辻本アナウンサーが言うと、途端にゲストの三人は静かになった。
「さあ、ソード・月岡選手、予選第一組でどの様な走りを見せてくれるのか。まさかとは思いますが、ここで敗退
も有り得ます!」
「無い、絶対無い!」
「そうよ、有り得ないわ!」
コンポンとメグミはアナウンサーに反発したが、
「負けても良いのよ、私が慰めてあげますから」
アザミは二人とは違う反応をした。
「……、パンッ!」
号砲と共に走り出したソードはスタート自体誰よりも早かった。予選一組はアザミの予想に反してソードの
圧勝に終った。
「速い! ソード選手、これが苦手な短距離なのでしょうか。タイムは10秒77。まだかなりの余裕があります。
うーーーーむ、信じられません。全日本のトップスプリンターだと言っても、過言ではありません! 場内もソー
ド選手に大声援が送られております!」
辻本アナウンサーも興奮気味である。
「見ましたか、皆さん。日本中の皆さん、いや、世界の皆様。これがソード・月岡選手なのです! 彼はもう日本
の宝物です!」
アナウンサーを押し切って、コンポン君が感激しながら言った。
「ううううっ、凄いです。期待以上です。あああ、ソードさん愛しております!」
「あああ、本当に良い意味で期待を裏切ってくれましたわ。貴方は私の命です!」
メグミとアザミもすっかりソードに参っていたが、その頃、局にはごうごうたる非難の電話が殺到していたの
だった。