夏 休 み 未 来 教 室 


                                              春 野 夢 男

                               87


「えーっ、これはたった今入った情報ですが、局の方に大変なクレームが殺到しております」
「クレーム? 何かしら?」
「私達の事じゃないわよね?」
 メグミとアザミは意味が分からないといった顔をした。

「はい、そのまさかで御座いますよ。メグミとアザミを降ろせ、という沢山の電話、ファックス、eメールが殺到し
ております。それとこれは局長の鏑木(かぶらぎ)さんからの命令です。『この部屋から出ろ!』です。お二人ど
うします?」
「えーっ、嘘! 信じられないわ!」
「どうしてなんですか? 私達何か悪いこと言ったかしら?」
 二人は見に覚えが無いという表情だったが、
「もう一度言いますが、これは局長命令です。逆らえば首だそうですがどうします?」
 辻本アナウンサーは目だけで笑いながら言った。

「首は困るわね。事情は後でしっかりと聞くことにして、ひとまず、退却します。仕方ないわね」
「じゃあ私も、今度は別の部屋でテレビ観戦させて貰うわ。でもねえ、納得行かないけど」
 メグミとアザミは一言ずつ苦言を呈してから部屋を出て言った。

「あのう私は良いんですよね?」
 コンポン君はちょっと心配になって言った。
「はい、コンポン君にはクレームは殆ど来ていないそうです」
「いやー、良かった良かった。しかしあれでしょう、あの二人、個人的感情を丸出しにしたからなんじゃないんで
すか?」
 コンポンは二人に対するクレームの中身を想像して言った。

「ええ、ええ、その通りです。幾らなんでも、ソード選手に告(こく)って仕舞うなんてね。行き過ぎですよ。それ
相応の処分は覚悟した方が宜しいでしょうね。さて私も仕事に戻ります。予選第二組は……」
 何かと波乱の多い関東地区予選だったが、予選を通過した、五十人が準々決勝を行う。予選トップの者は、
準々決勝以下の試合では必ずラストに出場する。

「用意、……パンッ!」
「ソード選手速い、速い、速い! 準々決勝でも圧勝です! この大会では、強い選手がダブらない様に、予
選のタイム毎に、選手の振り分けが行われますが、ここでもソード選手がトップの記録、10秒38という素晴し
い記録でした。
 ここまでで、十秒台の記録は五人おりますが、ソード選手以外は十秒代後半です。記録に伸びが無いのは、
一メートル位の向かい風なんですよね」
「そうなんですよね。追い風だったら十秒そこそこの記録だと思うんですがねえ……」
 思ったほどの記録が出ない事に、コンポン君は悔しそうである。それは会場の観客達も、テレビ観戦の視聴
者達にとっても同じことだった。

『ソード選手だったらきっと、日本人選手として初めて、十秒の壁を破ってくれる!』
 そういう思いが強かったのだ。しかし、ソードはその様には考えていなかった。
『きっと惨敗する。いや、惜敗でも良い。がっかりされた方が良いのだ。ボロ負けして、罵られて丁度良いのだ。
負けろ、負けてしまえ!』
 半分位はやけになっていた。しかし体は独りでに動いてしまう。ゆっくり走ろうと思うのに、気が付くと全力疾
走しているのだ。しかも走り方は段々上手くなる。

「さあ、いよいよ準決勝です。準決勝は二十四人が走ります。八人ずつで三組。各組の上位二人は無条件で
決勝進出。それで六人決りますが、後二人は残った者の内からタイムでトップツウの二人が選ばれます」
「ここまでの経過から、ソード選手が優勝する公算が非常に高いと思うのですが、問題なのはタイムでしょう。
出来るならばソード選手を応援する神風が吹いてくれると嬉しいんですがねえ……」
 コンポン君は仕舞には神頼み的な言い方になった。

「はははは、そう上手く行くかどうか。さて、もう間も無く、準決勝が始まります……」
 ソードが出場する準決勝第三組までは場内は静かだった。
「今度は第二組。現在ほぼ無風の状態です。さあ、第二組スタート!! この組には、10秒00の記録を持っ
ている大学生の黒胴影末(くろどうかげすえ)選手が居ります。まだ十八才。将来が大変楽しみな選手です。
……いよいよスタートです!」
「おお、おお、これは、かなり良いタイムです! 多少なりともソード選手にプレッシャーを与えましたね」
 コンポン君はまるで解説者の様に説明した。

「はははは、コンポン君は名解説者だ。現在の所、黒胴選手がトップの記録です。10秒28これは相当に良い
記録ですよ。さて、ソード選手、この無風状態の中、どの様な記録を出すのでしょうか!」
「……パンッ!」
「ソード選手、速い、速い、これは速いぞ、ああーーーっ、惜しい!」
 会場中から溜息が洩れた。負けたのではない。圧勝したし、トップの記録なのだが、夢の九秒台には届かな
かったからである。

「しかし、良い記録じゃありませんか。殆ど無風でこの記録だったら、追い風一メートルもあれば、大記録達成
も夢じゃないでしょう?」
 コンポン君が慰めの言葉をテレビの向こうの視聴者に向かって放ったのだった。
「そ、そうです。10秒20は文句の付けようの無い立派な記録です。それにまだ決勝がありますし、今日記録が
出なくとも、全日本の選手権があるのですから」
 辻本アナウンサーも気を取り直して言った。

「いよいよ決勝です。勿論ソード選手が出場します。予想通りソード選手がトップ、二位が黒胴選手です。三位
以下とはかなりの差があります。
 さあ、選手が登場しました。今日は他にも沢山の競技があるのですが、何と言っても男子百メートル競走が
最も注目されています。
 大観衆八万人が見守る中、本日のメーンイベントが今正に行われようとしています。先ほどまでざわついて
いた場内がシーンと静まり返ってしまいました。
 さあ、私達も注目しましょう。ソード選手が何を見せてくれるのか。それとも今回ばかりは不発に終るのか。
間も無く始まります!」

「……位置について、……用意、……パンッ!」
「綺麗なスタートです! まず先に飛び出したのは黒胴選手! しかしソード選手が出て来た! 猛追している!
 抜くか、抜くか、抜いた、抜いた! 速い、これは速い、どんどん差を付ける、大きく差が付いた、凄い記録が
出そうだ、出た、やった、やったーーーーーっ!! 速報タイムは9秒99、風が殆ど無かったのでこれは公式
記録になります。現在公式の記録を取っている最中です。
 出、出ました、夢の記録が出ました! 9秒98! これは公式タイムです! やりました、とうとうやりました。
日本新記録! 夢の記録の達成だーーーーっ!!」
 会場の大歓声に合わせたかの様に、辻本アナウンサーは我を忘れて叫び続けたのだった。

「ううううっ、やりましたよ、ついにやりましたよ。本当に嬉しいです! ううううっ!」
 コンポン君も感激の涙を流し続けた。番組的には目茶苦茶になったのだったが、それには殆どクレームは
なく、共感や激励の電話などが殺到したのだった。

 こうしてソードは『一にスポーツ、二にスポーツ!』の番組をめでたく卒業し、卒業賞金五百万円の他に、偉
大な記録を作った事に対して、特別功労金五百万円、合わせて一千万円の賞金を獲得したのだった。
 ただ、ソードはこの番組の賞金の全額を、幾つかの福祉施設に分散して寄付したのである。公表した訳で
はなかったが、幾つかのメディアの知るところとなり、それはそれで大変な話題になったのだった。

 こうしてまたも大記録を打ち立てたソードは、賞金の全額寄付の件もあって、日本では殆ど神になった。三週
間後に行われる全国大会までのスケジュールは、その影響もあって相当ハードなものになった。
 彼のスケジュールやギャラの交渉などは三人の付き人が主にやったが、彼等はその方面では素人である。
ソードへの思いを断ち切れない、大橋メグミと白金アザミはテレビ局を辞めて、SH教団に入り、粘り強い交渉
の末、とうとうソードの付き人になった。ソードが彼女達を認めたのは、彼にとってそれ程魅力的な異性ではな
かったからである。
 何はともあれ彼女達のお陰で交渉ごとはすんなり行くようになったし、計画も上手に立てられる様になったの
である。

 ただ、日本では偉大な記録の百メートル走9秒98というタイムは、海外ではそれ程評価されなかった。世界
は既に9秒7台になっていたからである。
 しばしば海外へ講演に行く金森田にとって、それは面白くない事だった。
「ソード君、現状に満足せずに、更に精進したまえ。9秒7こそが真の壁なのだ。頼んだよ」
 事も無げにそう言って、彼はまた海外講演に出かけて行った。ソードは無論二つ返事で了承した。

「ソード様、来年の世界水泳選手権の方はどう致しましょうか?」
 大橋メグミは今はソードの秘書の様な感じでフォーマルな服装に身を包んでいた。
「出来れば参加を辞退したい。正直言って、今度の全日本の陸上競技に出ることで精一杯なんだ。暫く休みた
いんだけどね。何ヶ月間か休んで、体力が回復したらまた考えてみるよ」
 ソードは反対されるかも知れないと思ったのだが、
「かしこまりました。それではその方針で交渉に当ります。早速連絡を取ってみます」
 一切の反論もなくすんなりことは決った。

『うーむ、余り簡単に行き過ぎて気持が悪い位だな』
 ソードにとっては、それはそれでまた悩みの種だった。
『うっかり、冗談にも殺せだの、死ね等とは言えないな。俺自身は帰依することを求めたことは無いが、彼等は
その積りなのだろうな……』
 気の重い日々が当分続きそうだった。

         前 へ       次 へ        目 次 へ        ホーム へ