夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
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「しかしいきなり日本タイ記録ですか。これは先に期待が持てますねえ」
解説者の伊丸岡米吉はどちらかと言えば視聴者の聞きたい言葉を並べるタイプだった。勿論お世辞ばかり
言う訳ではないが、マスコミ受けする、使う側にとっては有り難い存在である。
「いや全くその通りで御座いますね。ソード・月岡選手のこの後の活躍が大いに期待される所です。さて今日は
この後、二次予選、準決勝、決勝まで一気に行われます。最後の決勝は夕方頃に行われる予定です。
スケジュール的にはかなりハードなのですが、今年から一競技は一日で終わるシステムに変更になりまし
た。確かにその方が選手は日帰り出来て楽です。宿泊施設を確保しなくて済みますから。
ただ、今回、私共は大変な事を聞かされております。ソード選手、今回を最後に引退し、今後は宗教活動に
専念するという、まあ、これは噂だけなのですが、もしそれが事実だとすると、大変残念なことであります」
男性アナウンサーは本当に残念そうに言った。
「いや、そんな噂があるのですか。まあ、噂だけである事を祈りたいですね。しかし、もう一つ重大な事があるん
じゃありませんか?」
米吉はアナウンサーに、ソードに関する重大なもう一つの、それは噂ではなく、紛れも無い事実であるのだが、
その発表を催促したのである。
「はい、それではたった今入って来た、ビッグニュースとでも言いますか、明後日の最終日、何と、マラソン競技
にソード・月岡選手がエントリーしていた事が判明致しました。
マラソンと百メートルの短距離走とでは主に使われる筋肉が違います。それぞれに適した筋肉、赤筋と白筋
とがあります。
誰しもが両方持っているのですが、マラソンの選手は赤筋がより多く、短距離の選手は白筋がより多いと言
われております。
従いまして、両方で優勝する事は、ましてや世界記録を出すことなど、有り得ないのですが、彼はその常識を
今打ち破ろうとしています。今日の、そして明後日の記録が、楽しみでもあり、また、ちょっと怖い位でもあります」
アナウンサーは奇跡を見る様な目で言った。
「私にも言わせて下さい、もっとあるんですから」
米吉が更にソードの参加種目について、付け加える様である。
「はいどうぞ」
アナウンサーはあっさり譲った。
「明日、走り幅跳びにも参加するんですよね。これは短距離の選手としては有り得ることですし、オリンピック等
では、実際にしばしば行われています。
ただ全日本の競技会では通常は認められておりません。まあ、ソード選手の場合は特例です。しかもですよ、
走り高跳びにもエントリーしているんですよね。
今年から競技の順序などが変ったので可能になったのですが、これはもう前代未聞としか言い様がありませ
んね。世界でも恐らく例が無いでしょう。十種競技なら有り得ますがねえ、人間というよりは殆ど怪物ですね」
米吉も良い意味で呆れながら言った。
「今、伊丸岡さんが言われた事は全て事実です。伊丸岡さんは十種競技なら有り得ると言いましたが、その十
種競技にはマラソンは含まれておりません。
今日、明日、明後日とソード選手がどの様な記録を出すのか、期待と私気が小さくて、あれなんですが、恐れ
とを感じております。
良く知られている事ですが、彼はSH教の信者であり、指導者でもあります。少し前に信者の方々にお話を
何度か聞いてみたことがあります。彼等にとっては、ソード選手こそが正に神の化身だ、と考えられてます。
私、当時は半信半疑で御座いましたが、今はもう信じるしかない様な気がしております。
さて、お話している間に、百メートル走の二次予選が始まりました。一次予選トップのソード選手は当然、第
一組に登場です。さあ、今度はどの様な記録が出ますでしょうか!」
アナウンサーは半ば新記録が出る積りで言った。本来ならば公正を欠いた不適切な発言で処分ものだった
が、その心配は無さそうである。
「パンッ!」
「一斉にスタートしました。あああ、速い、速い、群を抜いて速い! ソード・月岡選手、圧勝です! タイムは、
タイムは9秒89!! またもやりました。日本新記録!! この記録は世界歴代でもベストテンに入っており
ます!!」
アナウンサーは興奮して叫んだし、競技場は大歓声に包まれた。
「いやーやってくれましたね。9秒90の壁を破るとはねえ。まだ、まだ伸びますよきっと。私の目にはまだ余力が
ある様に見えました!」
米吉も興奮気味に叫んだ。ちょっと可哀想だったのが他の競技である。ソードばかりが目立って、観客も他
の競技の時には大半が雑談していたのだった。
「しかしお客さんのマナーにはちょっと問題がありますねえ。幾らソード選手が目当てだと言っても、こう場内が
ざわついていてはねえ……」
米吉は苦言を呈した。
「はいその通りです。まあ、仕方が無いと言えば仕方が無いのですが、私共も今後気を付けようと思います」
アナウンサーは自分達も加害者の一人だった事に気が付いた様である。
『やれやれ忙(せわ)しい事になったな。金森田の糞野郎、あれもやれ、これもやれと無理難題を吹き掛けて来
る。多分『神のマシン』の製作が始まった事と無関係ではあるまい!』
選手の控え室で休んでいたソードは、何時もの様に眠っていたが、目を瞑りながらそんな事も考えていた。
同じ部屋に付き人も居たが、彼等は不逞の輩からソードを守る為に目を光らせていた。実際彼は嫉妬から競
技関係者の男達から半ば総スカンを食っていたのである。
どんな嫌がらせがあるか知れなかった。女性が寄って来ても油断出来ない。男の手先となって、色仕掛けで
ソードにセクハラをさせようとした事が実際にあったのだった。
あられもない姿でソードにわざとぶつかって倒れ、セクハラだと叫んだのだが、目撃者も多かったし、一部
始終を、ソードを追い掛けていたカメラが捕らえていたので、逆に女の方が警察に連行されたのである。
女は女子高生で陸上競技関係者の一人に頼まれたとあっさり自白した。金を貰って実行したのだが、投げ
やりな不良だったので状況もよく考えずに行動したようである。
「さて、さて、今度はいよいよ準決勝です。またも第一組に出場するソード選手。今度はどの様な記録を出すの
でしょうか?
おっと、期待過剰ですね。この様な事を言うから、観客のマナーも悪くなるのでしょうね。失礼致しました。
ええ、その、さあ、間も無くスタートです!」
アナウンサーは過剰な期待を取り止めて、ごくあっさりとした感じに言い直した。
「……用意、……パンッ!」
「綺麗にスタートしました! 速い! 何と言うスピードでしょう。速い、速い! 二位以下に大きく差を付けて、
ゴーーーールッ!!
タイムは、良い筈です。絶対に良い筈です!! 出た、出ました!! 9秒79!! こ、これは日本新記録
であると共に、世界歴代三位の記録。いいや、ガトリン選手の記録はドーピングで抹消されましたから二位の
記録です!! 追い風は1.2メートル! 公式記録です!!」
アナウンサーは我を忘れて絶叫した。
「まさかと思ったが本当に9秒80の記録を破りやがった。何だこいつは、化物だ、怪物だ!!」
米吉も我を忘れて叫んだ。
「いや、素晴しいタイムでした。決勝では世界記録を狙いますか?」
会場の男性アナウンサーによる勝利者インタビューに、
「まあ、風次第ですね。追い風が今位だったら行けると思いますけどね」
ソードは淡々と言った。
「じゃあ、やっぱり狙っているんですね、9秒77の世界記録更新を!」
「はい、一応その積りです。でもこけるかも知れないですよ。余り期待し過ぎないで下さいよ」
ソードは本音を言った。実際にはまだ余裕があったので、記録更新は間違いないところだったが、何がある
か分からないのが世間の常。用心深くそう言ったのである。
「百メートル競走で日本人が世界記録を出す等とは夢の様な話ですが、それが今現実のものとなりつつありま
す。彼が今世界の強豪と戦っても、恐らくは優勝するでしょう。それ程の圧倒的な強さなのです。
もう、申し訳ありませんが、たかが放送局の一アナウンサーに過ぎない私ですが、ここからは人間として言わ
せて頂きます。
ソード・月岡選手、頑張れ、是非、是非、世界新記録を出して下さい。お願いします。もし世界新記録を出した
なら、その時は私SH教に入信いたします。本当に改宗いたしますので、宜しくお頼み致します!」
アナウンサーはとんでもない事を言い出したのだった。
「し、しかし世界記録は分厚い壁ですぞ。そう簡単に破れるかどうか。いやあ、本当に、もう、落ち着きませんな」
解説の伊丸岡米吉も気持が大いに揺れていた。それは会場の観客達も同じで、何気にザワザワが続いてい
たのである。それから数時間後、午後六時を過ぎて、すっかり日も暮れて、照明が明々とついた競技場内は
異様な興奮に包まれていた。男子百メートル決勝がもう間も無く始まるのである。
決勝に残った八人が一人ずつ場内アナウンスで紹介された。
「……、第四のコース、ソード・月岡君、……」
ソードが紹介されると、
「ウウウウオオオオオーーーーーーーッ!!!」
凄まじいばかりの声援が巻き起こったのだった。他の何人かの選手はチラッとソードを見た。その目には過
激なほどの嫉妬心が渦巻いていた。しかし観衆の目があって、今は何も出来ない。
『後でみておれ!!』
少なくとも一人はそんな感情を爆発させていたのである。それでも否応無しにスタート時間はやって来た。
「……位置に着いて、……用意、……パンッ!」
八人は綺麗にスタートを切ったのだった。