夏 休 み 未 来 教 室
春 野 夢 男
95
ソードはこの時初めて全力疾走をした。
『一、二、一、二、……………』
頭の中で、体に命令をする。一は右足、二は左足。その練習は地下で或いは駐車場でたっぷりやって来た。
ソードの胸の中には、意識スイッチなるものがある。
何かをイメージして強く思うと、脳内のある特定の場所に微弱電流が流れる。それが脳内に埋め込まれた、
特殊な発信機から暗号化されたデジタル信号として電波発信される。
胸部にある装置がそれを受信して、そこから種々の指令が出されて、全身を動かすのである。ただイメージ
が余りに非現実的であったり、混乱していたり、速過ぎたり遅過ぎたりすると、上手く機能しない。相当の訓練
が必要である。ソードの場合は既にその訓練が行き届いていて、滑らかに体を動かす事が出来る様になって
いた。
「速い! 二位以下を大きく、大きく引き離しています。十メートル近くは離したぞ!! これは大記録が出そ
うだ。速い、速い、速い、ゴーーーールッ!!!」
アナウンサーの叫んだのと観客が叫んだのとはほぼ一緒だった。場内は異常なまでの興奮状態になった。
「タイムは! タイムは9秒49!! 追い風1.5メートル!! 公式記録だ!! 超人的な記録が出ました。
とんでもない大記録が出ました!! ソード・月岡選手、貴方は正に神の子だ!!」
アナウンサーはひたすら絶叫していた。場内の歓声は凄まじくテレビの中継もままならないほどになった。
場内の興奮が収まるまで暫く待ってから、勝利者インタビューがなされた。
「おめでとう御座います、驚異的な世界新記録ですよ。9秒49! 凄まじい記録で鳥肌が立ってしまいました。
会場の皆さんも同じ思いだったと思います。どうですか、今のお気持は」
「なんと言いますか、感無量です。うううっ! はははは、済みません、何か考えが纏りません。兎に角嬉しいで
す。でもちょっとくたびれました、はあ、はあ、……」
ソードは疲れ切った表情になった。それは嘘でなかった。体を全力でスムースに動かし続けるのに相当の集
中力を必要とする。肉体には疲れは無いが、脳はかなりくたびれていたのだ。
『どうやらここいら辺りが今の体のパーツの限界なんだな。しかしサイボーグと言っても、そのボデイの強化に
は限界がありそうだぞ』
ソードは疲れた脳を徐々に休めながら、そんな印象を感じ取っていたのである。
「相当にお疲れのご様子ですね、それでは、会場の皆様に何か一言!」
アナウンサーはソードが疲れ切っている事を知って、最後の一言を言って貰って終りにしようとした。
「兎に角、兎に角、はあ、はあ、応援、有難う御座いました!」
ソードは如何にもくたびれた様に息を切らしながら、会場の観客達にお礼を言った。
「ウウウウオオオオオオオーーーーーーーーッ!!!!」
「パチ、パチ、パチ、パチ、………………」
「日本一!! 世界一!! 宇宙一!!」
物凄い大声援だった。ソードは手を振って会場を後にした。勿論直ぐドーピングの検査場に向かうのである。
『何度受けても嫌な時間だな。俺のじゃないから大丈夫とは思うけど、万一、俺の検体の提供者がうっかり風
邪薬でも飲んでいたら、それでアウトなんだからな。変な話だけどそれこそ祈るしかないな。
しかし今日の記録だったら、金森田の野郎も満足だろうよ。9秒7を切れとか言っていたからな。しかし9秒
49というのは少し頑張り過ぎたかな? まあ今更どうにもならないしな』
ドーピング検査の会場に行くまでの間そんな事を考えていた。
結局ドーピング検査は無事パスした。今回は簡単な尿検査だけだったので、当然の様にパスしたのである。
だが複合的な検査、尿検査の他に血液検査や更にはDNA鑑定も付け加えられていたらかなり厳しかっただ
ろう。
DNA鑑定の場合、普通は頬の内側から、僅かに粘膜を削り取って行うのだが、別に髪の毛でも良いのであ
る。方針を変えて髪の毛にしないとも限らない。
そうなるとちょっと拙いのだ。ソードの髪の毛は言わば植毛した人の毛なのだが、複数の人毛が混じっている
からである。
マスコミはソードの記録を大々的に報道した。全世界の話題となって、正にソードは時の人となったのである。
翌日、競技場は超満員になった。
走り幅跳びと走り高跳びでどんな記録が出るか、
『きっと世界新記録が、それも驚異的な記録が出るのに違いない!』
その期待感に溢れていたのである。
テレビでは昨日と同じ顔ぶれで放送が始まった。スポーツ専門チャンネルでは特にソードに照準を合わせて、
彼の出場する全競技を放映する予定であった。
「さてお約束通り、私、SH教に早速ですが、昨日入信致しました。とりあえずご報告まで。さて、今日は走り幅
跳びと走り高跳びですが、時間がかなり重なっていますが、両方のエントリーは可能です」
「と、言いますと?」
解説者の伊丸岡米吉は分かってはいたが念の為に聞いてみた。
「はい、試技開始までまだ少々時間が御座いますので、そこのところを少し詳しくご説明致しましょう。先ず最
初は走り幅跳びの予選から始まります。
午前中三回、夕刻頃決勝の三回の試技なのですが、午前中の試技は一回だけにして残りをパスする方法
が御座います。勿論ファールが無ければの話ですよ。
三回目の試技の辺りから走り高跳びの予選が始まります。さっき言った方法でパスしておけば、記録が良け
ればの話ですが、夕刻頃の走り幅跳びの決勝には出られます」
「ふんふん、それで?」
米吉は適当に相打ちを打つ。視聴者の気持を考えてのことである。
「走り高跳びは幅跳びより遅く始まるので、終るのも遅くなります。高跳びの方は試技の回数に制限はありま
せん。三回失敗した時点で試技終了となります。
但し、途中のバーの高さをパスする事が出来ます。幅跳びの決勝の時間に重なりそうな場合にはその時点
の高さをパスすれば良い訳です。従って記録さえ良ければ両方に出られるという事になります」
アナウンサーが説明すると、
「しかし両方に出る人があるとは思いませんでしたがねえ。ソードさんがどんな記録を出してくれるのか、楽しみ
ではありますが、幅跳びで記録更新は有り得ますが、高跳びはかなり難しいのではないでしょうか?」
米吉は心配そうに言った。
「確かに、両方のチャンピオンが同一人というのは聞いた事が御座いません。特に高跳びは、背面跳びが主
流なのですが、これはかなり難しい。
頭から後ろに落ちて行く感じになるので、相当の恐怖心があると聞いた事があります。果たしてソード選手は
どうなのでしょうか。彼が高跳びに出た記録は全くありません。背面跳びをマスターしているのかどうかも全く
分からないのです。
おっと、そろそろ走り幅跳びが始まります。ソード選手は過去の記録が御座いませんので、一番最初に跳び
ます。さあ、場内に大声援が湧き起こって参りました!」
幅跳びは踏み切り盤を少しでも越えるとファールになる。不慣れな初心者がやると、そのルールの為に、な
かなか上手く行かないと考えられているのである。
「しかしソード選手は相変わらずの長袖のシャツに長ズボンです。細身の、体にフィットしたものではありますが、
何か心配になって来ます」
「ピーーーッ!」
「試技開始のホイッスルが鳴らされました。それから一分以内に試技を終了しないと失格になります。さあ、何
と言いますか、ソード選手余り緊張感も無く走り始めました。
しかし速い! 物凄いスピードだ。さあいよいよ踏み切りです。飛んだーーーーーっ!! これまた物凄い記
録が出ました!!
旗は? ファールなら赤、セーフなら白ですが……、白です!! 記録は、やっぱり世界新記録!! 9メー
トルの壁を越えたーーーーっ!!! 9メートル15センチ!!!」
アナウンサーは直前の心配も何もかも忘れて絶叫した。
「人類には越えられないだろうという、壁、9メートルの壁をついに、ソード・月岡選手が超えました!! こ、こ
れは大変なことですよ!! 大事件ですよ!!」
解説者の米吉までもが叫んだのだった。会場は勿論激しいほどの大声援が湧き起こっていた。暫く他の競
技が出来ないほどだった。
ここでも苦虫を噛み潰した様な顔になった幾人かの競技者がいた。競技が中断した事よりも、嫉妬や妬み
で狂いそうになっていたのである。
「チッ! 良いよな、あいつは。くそ面白くもねえっ!!」
とうとう口に出して、ソードを罵る者が出て来たのだった。しかしそんな言葉には殆ど気付かずに、ソードは
予選の残りの試技をパスする旨を審判に伝えていた。そこから今度は走り高跳びのブースに歩いて行った。
「さて今度は走り高跳びですが、まあ、大丈夫だとは思うのですが、背面跳びはマスター出来ているのでしょう
か? 幅跳びの方は踏み切り盤だけが難点でしたが、高跳びは、跳び方そのものが難しいのです。どうでしょう
かねえ、伊丸岡さん」
アナウンサーは米吉に意見を聞いた。
「そうですねえ、確かに難しいとは思うのですが、ソード・月岡選手ならやってくれるんじゃないでしょうか? 彼
は今まで一度も期待を裏切った事はありませんし、練習風景などは公表しておりませんが、何処かで猛特訓
を積んで来ているんじゃないでしょうかねえ。そこいら辺り、彼に直接聞いてみたいものです。ああ、でもそろそ
ろ始まりますよ」
米吉も半信半疑だったが、むしろソードを信じようという気持ちが強かった。
「いよいよ走り高跳び予選が始まります。ここでもソード選手は記録が御座いませんので、飛ぶのはトップです。
会場のボルテージが上がって来ましたよ。
助走に入ります。当然ですが全力疾走ではありません。最初のバーの高さは一メーター七十センチからです。
ああ、綺麗な背面跳びです。大変な余裕を残して一回でクリア。先ず最初の関門を突破いたしました!」
アナウンサーはほっとして言ったのだった。